火の国~ヒナから鳳凰編

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肥後もっこす」ということばがある。

熊本人の性格を表したものだ。
津軽じょっぱり、土佐ごっそう共に、日本三大頑固のひとつに数えられる。
簡単に表すと自己主張が強く頑固、そして反骨精神があるという。単純で実直、正義感が強くて不器用な男という意味らしい。
そして、この性格は女性にも共通していて、内に秘める情熱と強さと頑固さ、本音でつきあわないと気がすまない、かけひきや遊びが苦手な面があるようだ。

「肥後の議論倒れ」という言葉もある。
意味は議論好きで、それでいて自己主張が強いため議論がまとまらないことが多いことから生まれた言葉である。
薩摩では、大きな提灯を掲げた強力な指導者が現れた際には皆がこぞってついていく為「薩摩の大提灯」と呼ばれるが、肥後(熊本、佐賀、長崎)では各々が腰に提灯をつけ単独行動をとることから、「肥後の腰提灯」とも言われる。
「意地は熊本、気は薩摩」そんな言葉もある。



熊本といえば阿蘇山だ。
例に及ばず見に行った。何も知らなかったが公家シンジ君にいいですよ!と言われ見に行った。私は初めてこの光景を見たときに体に電流が迸った。阿蘇山でなら死んでもいいな。そんな気にさせるほど、雄大な自然に襲われたのだ。私の忘れていた野生が呼び覚まされた瞬間だった。私はこの景色を一生忘れる事はないだろう。

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そして忘れてはいけないのが熊本城だろう。
加藤清正公、宮本武蔵、谷干城・・・歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げた、熊本城400年の歴史が刻まれた名城中の名城である。
その堅牢っぷりはいつもの歴史考察を見てほしい笑

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今回のタイトルのヒナが鳳凰になるというのは、講習生の事だ。
彼は全然ナンパができる状態ではなかったが、今では幸せに過ごしている。
その件は一番最後に触れることになる。今回もブログは長い笑
でも、最後の部分は飛ばしてほしくは、ない。


歴史考察の部分が長いという指摘もある。
いつ終わるのか?とか、スクロールが大変だという指摘もある笑
でも、これが好き!という応援の声もある。今回は短い。歴史部分は4000字くらいだろうか?笑

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」そういう言葉がある。
歴史は、過去の出来事の記録ではない。
歴史は、今、作られている出来事であり、未来へと繋がる出来事である。
歴史を学ぶのは、過ちを学ぶ事。そして、誇りを学ぶ事である。
歴史を学ぶのは、未来に対する洞察力を磨く事。
年号や時系列を学ぶのではない。

「うんこちんちん」という言葉があ・・・・・いや、無い笑
「温故知新」というのは本当にある。
事の正否善悪に新旧老若の別はない。古いからとっいって、悪いとは限らない。正しいことは、正しいのである。
これに近い言葉に「鑑戒」(かんかい)という言葉もある。
いずれも過去を学んでつぎに活かすという事。
これはナンパでも言えます。私も異常ともいえる歴史を持っております。そのナンパの歴史、過去を見返して、今に活かしております。
歴史は、人生の宝庫である。そしてロマンがある。是非皆さんも自分の住んでいる場所の歴史を知って、誇りを見つけてほしい。



火の国、修羅の国、九州で起きた日本人同士が戦った戦争をご存じだろうか?

≪西南戦争≫
征韓論に破れて下野した西郷隆盛。
廃藩置県により士族の大半は無職化した。明治政府による改革の多くは士族にとって不利な内容だった。士族の不満はやがて表面化し、最初に不満を爆発させた戦争は佐賀戦争であった。江藤新平は西郷に援軍を乞うも拒否され、高知でも協力を得られず捕えられ処刑された。
帯刀の禁止に不満をもった熊本の太田、賀屋ら193名が蜂起。神風連の乱である。福岡でも秋月藩士の宮崎、今村らの230人が蜂起。秋月の乱である。

西郷は私学校を創設し、私学校の生徒たちに軽挙妄動を慎むように戒めた。
政府の中心人物であった大久保は、旧薩摩藩士族の力をそぐために、鹿児島にあった陸軍の火薬庫から、武器・弾薬を大阪に移送しようとしました。
これが西南戦争勃発のきっかけとなったのだ!
明治10(1877)年1月30日夜、激昂した一部の過激な私学校生徒が、草牟田の陸軍火薬庫を襲撃したのです。またその騒動が飛び火して、過激な私学校生徒らは、磯の集成館、坂元、上之原などの火薬庫を次々と襲い、鹿児島市内は火を放ったような大騒動となりました。
それを聞いた西郷は「ちょーしもた!」と絶句したそうです。
「おいの身体は差し上げもそ」と後に腹を決める事になるのでした。
歴史は、再び彼を表舞台へと押し上げたのだった・・・

「今般政府へ尋問の筋これあり」
2月15日、薩軍は全軍でもって熊本に進軍し、21日に16000の兵力を七大隊に分けて熊本城の周囲を包囲した。対する熊本城守備する熊本鎮台は3500名あまり。
これが≪熊本城攻囲戦≫である。
熊本鎮台の鎮台司令長官谷干城少将は城下を焼き払い籠城して抗戦する構えを見せた。
開戦開始の前日、熊本城は失火により炎上。
22日熊本城へ攻撃を開始したが、加藤清正が築城の粋をつくした城壁に突破を阻止された。
段山の占拠以外はすべての攻撃が失敗という結果に終わった。
22日深夜に全力で夜襲をかければ熊本城も陥落したのかもしれない。
戦略面では素早く熊本城を陥落すれば、政治的効果は絶大で、“狼煙”となって全国の士族も呼応蜂起。政府は九州どころではなくなり薩摩の意思を受け入れざるを得なくなる可能性に向けて、補給・体制より、速攻進軍を優先させた。 しかし熊本城は陥落せず、政府軍は博多を南下。薩軍は補給・体制が不充分にも関わらず野戦に挑むことになってしまう。当然物資はすぐ底を尽く。戦地で銃砲弾製造を始めるものの原料も不足し苦しむことになる。
薩軍が熊本城を素通りせずに包囲したことに対し、軍略に明るい伊地知正治と板垣退助はそろって「敗兆!」と評した。
西郷は終焉の地、城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白したとまことしやかに今も伝えられています。
27日薩軍は熊本城から主力を北進させて3方向から攻勢をかけるが、弾薬不足、西郷小兵衛が戦死するなど損害も大きく退却に追い込まれる。北進を阻止された薩軍は以後守勢に立たされる事となった。

結局、薩軍は最後まで熊本城を陥落させることが出来ず、その後「田原坂」での大激戦(優れた工兵能力で政府軍を十数日間も足止めする防衛陣地を構築)、大分、宮崎、鹿児島など各地において政府軍と戦いますが、多勢に無勢、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に対し、薩軍はどんどん追い詰められていきました。
物量戦に敗れ延岡の戦い後、西郷の命令で薩軍は解散したものの、残った薩摩士族達は九州山地の最深部を常人では想像も付かない速さで駆け抜け政府軍の追求をかわした。
生き残った士族達は、生まれ育った故郷・鹿児島で、最後の決戦を行い死のうと考えたのです。
わずかな武器と500あまりの兵にも関わらず、政府軍が占領する鹿児島に突入て城山一帯を占領。西郷以下主立った者は政府軍の包囲の中玉砕していった。 このとき政府軍はのべ5万もの兵を動員していたという。

運命の最後9月24日。
政府軍の城山総攻撃で西郷が負傷し、別府晋介に「晋どん もうここらでよか」と言い自決を覚悟した。別府晋介は「御免なったもんし!」と叫び西郷の首を跳ね、自らも自決した。
西郷隆盛49歳、波乱の人生の幕切れでした。
若き日、島津斉彬に見出されて世に出て以来、西郷は常に人々の人望や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる原動力となりました。しかしながら、西郷自身はそのことに少しも驕ることなく、常に民衆のことを考えた政治を行い、自らも無欲で質素な生活をすることを常に心がけました。このような庶民性や人間性をもった英雄は、日本には彼一人しか存在していません。
西郷隆盛は、日本史上最も清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えるでしょう。

薩軍には楽観論があった。戦略に乏しく、装備、補給、資金が不足していた。海軍戦力も無かった。政府軍は有線回線を軍事的に利用し、情報の収集、伝達に大きな役割を果たした。
西南戦争での経験は日露戦争などで活用される。西南戦争は幕末以来の軍事改革の終着であるとともに、対外戦争の起点であったともいえよう。

『島津に暗君なし』
幕末の激動時代、薩摩藩代11代藩主、島津斉彬という人は、多くの蘭学者と交友しながら常に西洋の新しい情報を求め、藩政はもとより幕府の行く末を描いていた男。外様大名でありながら日本という国を見つめ、国防に備えるために幕府かくあるべしと着地点を想定。大砲や軍艦を備えた、その見事な分析力や企画力、そして実践した行動力。
水力発電所を造り、鹿児島城の本丸と二の丸の間に有線電信機を設ける。
鹿児島防衛用の沈置水雷を造り、鉱山用の送電地雷を製造、実用に供し、オランダの技術書によって、西洋式の火薬を製造、貿易用の輸出品として、ガラスを製造、板ガラス、紅ガラス、切り子ガラスを作ったが、なかでも紅ガラスはドイツ製品と肩を並べるほど、評判が良かったという。
大規模な反射炉や工作機械工場をつくり、これらによって、大量の大砲や小銃を製造。そのどれもが当時としては規格外のプロデュース能力だったと感服せざるを得ない大名だった。
幕府の禁を犯して、若き藩士19名を英国留学生として送り込んだ。帰国後彼らは政財界で活躍し、明治維新の原動力にもなったという。

斉彬候は、当時流行の攘夷、鎖国論者ではなく、「鎖国を上策と心得たり、日本国を唯一の世界と思うのは、間違いである。外国との交際や貿易は大いにすべきで、その交際の精神は平和親善であらねばならない。ただ、そのためには国防を盛んにし、外国からの侮辱に対しては、断固たる態度をとらねば、独立をうしなう。」と、絶えず重臣たちに諭していたという。
当時日本人の度肝を抜いた、ペリーが乗ってきた黒船。斉彬はこれに驚くよりもこれを作ろうとし、ペリー来航後わずか三年で製造に成功した。
ペリーが徳川家に土産としてライフル銃二挺をもってきたとき、斉彬はそれを拝見したいと乞い、1挺を借り、一晩でそれを分解して図面にとり、幕府に返し、帰国後「これを三千挺作れ」と命じた。

藩主時代はわずか7年という短命ながら、必要な人材を登用し、近代化事業を起こし、薩摩藩から幕府、朝廷までを視野に入れた計画・構想をまとめ上げた力量たるや、稀代まれなる器であることは疑いがない。そんな男が150年も前に鹿児島にいたのだ。
その他、日新公・島津貴久、ご存じ島津四兄弟、蘭癖大名島津重豪、島津は名君がそろっている。
鹿児島人はそれを誇りに思わんといかんでごわす!

会津藩と薩摩藩の優れた教育制度。
同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていました。この集まりのことを会津藩では「什 」と呼び、そのうちの年長者が一人什長となりました。
毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長がみんなに「おきてに関するお話」を申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。またこれらの什が集り町内の区画によって統括され組織化されたのが「辺」制度であり辺同士が互いに競い合う形で教育が行われました。
幕末には同様の教育制度が薩摩藩にもありました。それは薩摩藩で行われた
『郷中教育』です。

薩摩藩でも居住地で区分する「方限」や「郷中」とよばれる地域で分けられ薩摩藩の少年たちも藩校の「造士館」に入学する前は毎日のように年長者の家に集まり手習いをしたり剣術を学びました。このように激動の幕末の時代に歴史上大きく関わった両藩の教育制度が似通っている点は、両藩ともに小・青年期において、居住する町内において集団教育をおこなっているところです。
幕末期において、会津、薩摩の両藩士達は、他藩を圧倒するほどの武士としての存在感を発揮しましたが、やはりその源は「人造り」、つまり「人材教育」、「教育制度」にあったと言えるのではないかと思います。
八重の桜で有名になった、ならぬことはならぬ!ですね笑
郷中教育のもとになったのが、島津忠良(日新公)がつくった「いろは歌」があります。

いろは歌には47の歌があり、最初の「い」は、

「いにしへの道を聞きても唱え(となえ)てもわが行いにせずばかひなし」
昔から伝わるいろいろな言葉を聞いて覚えるだけでは役に立たない、大切なことはそれを実践することだ、そういう意味です。

今の日本は若者が選挙に行こうとしない。はたして、これからの日本に幕末の島津の殿様たちのような名君は出るのであろうか?
今も歴史は続いております。我々は今という現代を生きる歴史の傍観者なのです。
その中で世間一般では下衆と蔑みられても、今を生き、好きな趣味(ナンパ)を謳歌できるということを幸せに思わなければならないのかもしれませんね。


某日
公家シンジが語った。いゃ~福岡もいいけど、熊本も可愛いんですよ笑
服屋の店員が語った。いゃ~福岡の可愛い子は熊本から来てる子多いんですよ笑

といういうわけで??

ナンパ先導隊、ナンパ探検隊?、いやシンジージョーンズ?いやシンジポーロ?ヒゲズス会??
気になる地域があればとりあえず公家シンジを派遣して様子見しよう!
なんていう名案が出ているくらい、ナンパ開拓者の彼を船頭にして、火の国熊本へと渡ったのだった。

今回公家シンジ君と旅行に行くのに際し、一緒に講習をやってみようかとどちらかともなく提案し、あれよあれよという間に決まった。
彼は九州を開拓したコロンブスのような人物だ。彼のおかげで九州に今、一大ナンパブームが来ているといっても過言ではない。
新しい土地に行くナンパ探検隊として後世に名が残るのかもしれない笑

そんな彼(公家シンジ
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彼を特別な凄腕とは思っていないが、私が感じるのは講習生のために真剣に考えている希少な講師の一人だということだ。
正直いって講習生のために真剣に考え、講習に対する真摯な姿勢は私と通ずるものがあるし、人柄も素晴らしい。お互い講習の経験値も高い。
この二人で熊本で初めて講習をやることになったのだ、何かが起こらないはずもない。
今回の熊本講習はどこからともなくと九州中から集まってきた。初日の観光の後、延々と講習をぶち込んだ。予定はパンパンに膨れ上がった・・・

私の講習パートでは連れ出し&連れ出し。即もこなした。
東京ではいつでも会う事もできるし、受講回数さえ多くとってもらえれば、ゆっくりと成長を促す事もできる。しかし地方ではそうはいかない。特に今後来るかどうかもわからないような土地ではとにかく短時間で落としこまなければいけない。しかも自分のパートは座学を抜かしたら実地は当然1時間もない。
その為に如何なく実力を見せつける必要があった。

何か勘違いしている人がいるが、はっきりさせておこう。

講習を受けに来る人は口を揃えてこう言う。

『他の講習や塾ではゲットに至るまでの全体の流れがわからない。流星さんの講習では全体の流れが掴める。』

これが如何に大きいか、お分かり頂けるだろうか??
他所の講習では技術が不足しているから講習生と連れ出しや即る現場を見せたりはしないし、できない。それを見せない方がいいとか、理屈をこねくりまわして講習生の為にはならないと嘘をつく。でも、現実は全体の流れや感じを掴めるという事は大きい。
正直どんな恋愛、ナンパマニュアルを見たところでゲットまでの『感触』は掴めない。
現に流星道場生は受ける前、受けた後、で大幅に変わっているし、進化している。
これをいかにディスろうと、陰でコソコソ講習の評判を落とそうと躍起になって悪口を言っても、絶対にこの『正義』を覆す事はできない。

熊本講習では講習生が凄い成長した。しかし、誰もブログなどをやっていないため、その凄さ。大成功に終わったのを周囲に理解を得るのは難しいだろう。


熊本講習で可愛らしいコンビを一緒に連れ出した講習生がいた。彼はナンパ素人の状態からのスタートを切るに辺り、わざわざ遠くから講習を受けにきた。
その彼とはコンビで健全な場所に連れ出して、セパレートの状態で場を任せた。彼は女の子とかなり盛り上がっていた。その体験、そして講習後のとあるバーでの体験は彼の大きな財産になったずだ。

講習を受けるまではブスにすら道聞きすることもできずガチガチの地蔵の、口下手で困っていた講習生がいた。彼は観光、講習と毎日のように一緒にいて、一緒にいる時間がかなり長かった。彼と講習をした時に、ブランドの買物をしていた綺麗な女性がいた。それを彼に指名したら見事連れ出した。彼は公家シンジパートでは公家シンジとコンビ連れ出しを体験した。その後ホテルで体調さえ万全なら即までいけていたのではないか?という状態まで進んだ。
連れ出しができるようになったり、ホテルでお尻をなでなでできるようになっていた。
ガチガチの地蔵から連れ出しに至るまで成長した。これも回数を多く受けて一緒にいる時間が長かった結果、彼はナンパできる状態にまで成長をしたのだった。

一緒に連れ出して即った講習生もいた。彼はそれなり経験はあったようだったが、全然流れが違うと驚いていた。彼のセコく、陰湿な性格に私は以後講習を受けないと言い切ったが、ある種厚かましいほどの貪欲さはナンパに必要なスキルではある。しかし、そのままでは間違った方向へ進む事になるだろう。確かに今回の講習でたくさんの経験を得たが、人として正しい方向へ進んで欲しいと願うばかりだ。

講習後の夜、アポまで少し時間があった為街にでた。逆3連れ出しを確定させたのだが、福岡の公家シンジ講習生が私に話かけてきたことにより、その二人組は逃げるように去って行った。
その後、その日講習を受けにきた方がフラフラしていたので、少しだけ時間があったので、一緒に個室に連れ出した。私はアポがあったので、雰囲気を作って途中で抜け出した。厳しい状態でもゲットまで行く道筋が何となく理解したようだった。

更にまた、すごいコミュ症がきた。見た目はいいから、今までは見た目でやれていたのだろう。この彼とも時間は僅かしかない中で一緒に連れ出す事になる。しかし、個室内で彼はガチガチの銅像のように固まってしまい、それが女性にも伝わってしまった。コミュンケーションが満足にとれない彼には、見せる事が最上策だと考えた。正直今回の一回ではコミュ症を治すのは難しい。今後何度か講習を受けないと厳しいと私は感じた。


そして、最後に紹介する講習生は5度にわたって流星道場を受けることになる。
最初に東京に来てくれて、地方講習にも何度も参加してくれた。一緒に観光もしたし、お風呂で裸を見せ合ったり、服を買いにいったりもした。

その講習生と最初にあった時はまったくの無表情で他人の事など考えもせず、ある意味傲慢な人間だった。当然素人童貞である。彼は不器用だった。まともに女性と話をすることもできなかった。
何を考えているかわからない人、変わった人、そういう本当のコミュ症だと私は感じた。
しかし、唯一彼にはいい所があった。それは素直なところと、実直で、性格が良かったのだ。
熊本に来るころには随分変わっていた。それは地方講習で連れ出したり、即を見せたり、とにかく一緒にいた事で少しづつ変化していった。それからさらに熊本で長く一緒にいた。それが彼にさらに大きな変化をもたらした。講習を受ける前日に、なんと彼は逆3連れ出しをかました。最強の助っ人として私が当然助けにいった。結果は、私はそれはちょっと・・・というサインを出したが、途中でちょっとした失敗をし、その後の次の連れ出しには繋がらなかったが、あの彼がそこまで成長したか!?
と、自分の事よりも喜んだのは今でも覚えている。

更に講習ではまた綺麗な女性を連れ出した。グダられる結果でも、一緒に女性といるときの態度に少しづつ余裕ができたのが分かった。女性と一緒に連れ出してもがちがちに固まられてしまうとゲットできる女性もゲットできなくなる。彼は何度も私と連れ出すことにより女性との空気感がすこしづつわかってきたようだった。公家シンジと私と彼と三人でご飯を食べに行った時も、彼は私のような面白い人になりたいと話していた。
そして彼は一人でナンパができるようにまで成長していった。
最初の段階では、私以外の講習を受けたらナンパに向いてないとか、ナンパ無理ですなんて言われかねないような状態だった。
そういう状態から、とにかく私の言う事を素直に聞いた。私が良いといえばそれをやった。私もいかんなくダメ出しをした。ダメと言えばそれをやめた。その素直さが成長の大きな言動力になったのは言うまでもないだろう。

そして今回の講習の後しばらくしてから彼に連絡を取った。
今は彼女ができて幸せにやっているという。結婚まで考えているようだ。
コミュ症という状態から、ナンパのできない完全地蔵からスタートした。
その彼が今は最高の幸せを手に入れて、幸せに過ごしていた。
彼の人生に明らかに影響を与えた。
小さな小さな、ナンパの世界で生きていくには不安になるような小さなヒナだった。
その彼が自分だけの幸せを見つけて、自分の航路を突き進んでいた。
私はナンパで人生を豊かにするという、灯台の役割を果たせたのだろう。
もし別れたりしてもナンパのスキルがあれば、また幸せを見つけることもできる。
もし迷うことがあっても流星道場に来れば答えも見つかる。

流星さんのおかげでゲットしできるようになりました、流星さんは幸せの伝道師だと当たり前のように言われるようになった。
これが私の目指したナンパで人を救う『道』に他ならないだろう。

今回のように恋愛や結婚も、流星道場ではコミコミになっている。
貪欲な者は次から次へと女性を落とす修羅になる。
幸せを追及するか、快楽を追及するかは人それぞれだ。


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人それぞれ成長のスピードや段階がある。その人のレベルに合わせた必要な事を教えている。あるレベルの段階まで来れば、自ずと教える事も多くなるだろう。
不思議とそういう運命になっている。必要な段階に必要な事を教えている。それに気づくか気づかないかは本人の意識次第だろう。素直になることだ。私の言う事にはYESだ。それが大幅に成長を促進させる。

2014年は多くのものを導いた。2015年も多くのものを導くだろう。
2015年にはマンツーマンで1000回講習をやったということになるだろう。私は数字は盛らない。
1000人に講習したのと、マンツーマンを1000回やったのではレベルが違う。講習スキルはどんどん磨かれている。日本で私ほど多くマンツーマン講習をやっている講師はいない。それに更にプラスして、マイナスから逆転できる方法を一番知っているし、やってきた。
それが何を意味するのか?
それが講習生を成長させる源になっているのはもはや周知の事実だ。

熊本講習は大成功に終わった。これはあまり知られていない事実だ。

公家シンジ×流星の化学反応は確かに起きた。
この凄さを多くの人に知らせたいが当人達がいくら叫んでも信憑性はないだろう。

熊本の街も良い街だった。

アーケードがストの基本になるため、長時間何日かいたらすぐに有名人になってしまうようなローカルだった笑
九州の女性は良い。こういう所は愛を育む場所だ、そう感じた。
ただ、熊本は狭い。愛を育むにはいけれど、常駐してストるには向かない。九州ではやはり、福岡が大きい。地方は確かにいいのだが、街が狭いという欠点もある。
連れ出し先も、ストする場所もすべてアーケードにそろっている。なんか仙台と似ている感じ。仙台よりは規模は小さいが。
この時はちょうど街のイベントにぶつかっていたため人がたくさんいた。現地の人もこんなに人が多いのは年に1回くらいだといっていた。しかし、旅ナンパにイベントはおいしくない。それはソロが圧倒的に少なくなるからだ。地方は友達の繋がりが多い。街が狭いと至る所に知り合いがいる。そんな状況でのストと講習になった。人は多いけれど遊べない、そんな感じ笑

今回は延々と講習をしていて忙しい為、講習と講習の合間の数十分で即をした笑
シンジ君もいいなぁとうらやましがる熊本美人だった。
そのほかコンビで連れ出した片割れの可愛らしい子を準即した。
飛行機のギリギリまで講習をしていて本当に時間がなかった笑
最高に忙しい旅になったが、旅と講習の充足感で満たされた。


次の記事では少し自分の事にも触れていきたいと思う。

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