大坂冬の陣!! やきそば専門店

秀吉の遺言で家康と淀君が結婚するはずだったんだって!
(歴史に興味の無い方は前半部4000文字ほど飛ばしてください笑)

hqdefault


専門家によれば、この結婚の事が書かれている文書は複数あり、いずれも信憑性の高い史料なんだって!
妻となるべき人を、結婚式の直前に奪った男(大野)が、その彼女を守って籠城する大坂城・・・

そこに、大砲を射かける家康・・・


《大坂冬の陣の始まりである!》



豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍を指揮して三成ら西軍を撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。関が原の戦いで勝った後、家康は西軍の処罰を行いました。この際、豊臣家の蔵入地(直轄地)を処分、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石程度まで削がれた。
関が原はあくまで豊臣家内の内紛、五大老筆頭である家康が当時7歳の秀頼に代わって処罰をするのは当たり前の事。
しかし「関ヶ原の戦いにより、91の大名が取り潰しにあい、全国で11万人もの浪人が発生している。その後家康は血の繋がった孫娘の千姫を秀頼の正室にし、豊臣の姓も大坂城も朝廷での位も残したまま、大坂冬の陣が起こる年まで十年以上秀頼を放置していた。

その後も家康は武力行使をしないまま、何とか豊臣家を丸く治めようと「幕府も作ったし、形だけ臣下になってくれません?」とか、「新しい天皇陛下のお祝いに京都まで行くので、秀頼様も来ませんか?」など京都での会見だけは成功したものの、他の件についてはことごとく豊臣側が拒否してしまいました。しかし家康が譲歩を重ねていることがわからない豊臣方は、自ら戦の準備を始めてしまいます。
秀吉の遺産は莫大なもので、徳川家と一戦やるくらいの食料や兵士を集めるには余裕が有り余っていました。そして実際に兵糧や浪人をどんどん大坂城へ入れて戦の準備をしていました。家康も戦の準備はするが、まだ自分から仕掛けようとはせず。使者になっていた豊臣の重臣・片桐且元は、前々から徳川家と豊臣家の間を取り持つ役をしていたので、家康の怒りを感じ取り、「そろそろ家康に頭下げておかないとヤバいですよ」と淀殿を説得にかかりました。が、このとき出した条件はやはり淀殿の気に食わないものばかり。大阪の陣のきっかけと言われている、京都・方広寺の鐘銘事件ですが、銘文にイチャモンをつけた家康が、
「他の大名と同じく、秀頼が江戸へ参勤交代すること」
「(同上)淀殿が人質として江戸に住むこと」
「豊臣家が領地換えに応じること」
この三つのうちどれかをやったらいいという話。
この案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。秀頼や木村重成からの調停があったものの、10月1日に片桐且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を退去。

慶長十九年(1614年)10月7日、大坂の陣に備えた豊臣方の呼び掛けに応じ、浪士たちが大坂城に入城しました。集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人。その中には七人衆と呼ばれた名将も集う。
真田信繁=幸村
毛利勝永
木村重成
大野治房
長宗我部盛親
後藤又兵衛
明石全登

一方の家康は、10月1日には江戸城の秀忠に出陣の準備をうながすと同時に、全国の諸大名に参戦するよう命令を下し、自らは、10月11日に500の手勢を従えて駿府城を出陣・・・秀忠も10月23日に江戸を発ち、一路京都へと向かいます。
かくして翌月の11月15日、二条城を出陣した家康は大和路を通り、伏見城を出陣した秀忠は河内路を通って、ともに大坂に到着・・・
ここに大坂冬の陣が勃発したのです。


98d0ae93


豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。

大坂冬の陣での11月19日に起こった最初の衝突で、豊臣方は穢多崎砦を奪われ、その後も26日には今福・鴫野の合戦。29日には博労淵・野田・福島でも砦を奪われてしまいました。
徳川家康は、これらの大坂城周辺の局地戦での勝利を見て、そろそろ包囲網をせばめていこうと考えます。

【出城・真田丸】
大坂城は西に瀬戸内海、北には天満川・淀川、西には大和川の支流があり、地形的な防御力にも恵まれていたが、南側だけが陸地が広がっており、そこが唯一の弱点であった。そこに目をつけたのが、後藤基次と真田幸村だ。二人は南側に出城を築き敵の攻撃に備えるよう豊臣家上層部に提案する。これは受け入れられたものの、どちらがそこを受け持つのかが問題であった。
 二人とも持ち場を譲ろうとせず、両雄の間に亀裂が生じ始めた。しかも城内に『幸村が城南にこだわるのは、兄の信之と連絡を取って城に敵兵を入れるためだ』という噂まで広がり始めた。それを聞いた基次は「幸村殿が出丸に移って戦いを挑もうとするのは、そのようなことを言う痴れ者がいるためだ」と言い、出丸築城を辞退した。基次には疑惑を持たれている幸村の辛い立場が良く理解できたのだ。
 結局、出丸は幸村が平野口の正面・惣構の南東に築き、彼の名字を取って真田丸と呼ばれた。その構造は扇形の城砦で三方に空堀と二重の柵をめぐらし、櫓と楼閣を設置し、1.8メートルごとに銃眼六個を開いているという堅固なものだった。ちなみに南東が特に弱点であったわけではない。南の篠山を使って囮作戦をするためにそこを選んだものと思われる。

【晴れない疑惑】
真田丸を築く時、後藤基次は大野治長から「本当に幸村は徳川軍に内応しないのか?」と相談を受けている。その時、基次は「幸村殿に限ってそのようなことはありえない。ただ、華々しく活躍して武名を残そうと思っているだけだ」と否定している。だがそれでも疑惑は完全に晴れることはなかったらしく、真田丸と惣構を繋ぐ枡形は堅固に作られ、ここに一万の兵を置いた。もしも幸村が敵に寝返った時のためであった。

真田丸を再現した驚愕CG!


慶長十九年(1614年)12月4日は、最初の衝突の時から、おおむね豊臣方が不利の色濃い大坂冬の陣の中で、唯一豊臣方が徳川方に圧勝した真田丸の攻防のあった日。越前松平勢と前田勢が真田丸を襲いますが、逆に真田幸村・大助父子はこれを撃退します。この勝利の勢いに乗じて豊臣方が徳川軍を撃退、諸隊に大きな損害を与えました。
この戦いで討ち死にした兵は前田利常の兵・300騎、松平忠直の兵480騎、その他の雑兵にいたっては、数も知れない状況です。先ほどの戦功報告書を書いた宇津木泰繁が仕えていた井伊家でも、35人が討死、91人がケガを負うという、これも大損害をこうむっています。
当時、この戦いは“真田が出城の合戦”と呼ばれ、冬の陣の徳川方の死者総数の五分の四がこの日の戦いで亡くなったとそうです。
その後防御に必要な施設を充分に構築させた家康は、大坂城に対する攻城を本格化させ、大阪城北側の防御に寄与していた淀川の水位を膝下まで下げるという離れ技を、開戦の1ヶ月前から着手し、やってのけ、後日大和川の塞き止めも行います。大阪城北面の防御に風穴を開けた家康の手法は、豊臣秀吉が毛利の城を攻めた水攻めの応用とも言え、決してこれまでに無かった戦術ではありませんが、恐らく幸村にとっても想定外事だったでしょう。

そして慶長十九年(1614年)12月16日、大坂冬の陣にて、備前島に設置されていた徳川方の大砲から発射された砲弾が大坂城・天守に命中しました。
この冬の陣以前では、実戦での有用性を疑問視されていた大筒(大砲)を大量に持ち込んでいたのです。しかもその大筒の性能は、これまでの認識を覆す途方もない性能のものでしたが、確かにこの時導入した大砲の数とその性能は、覚醒の感があったものの、命中率についてはかなり難があり、その砲弾は現代のような炸裂弾ではなく、殺傷能力についても効率的とは言えませんでした。そのことを試し撃ちなどで理解していた家康は、その破壊力そのもので大阪城を攻め落とすのではなく、心理面に訴える作戦を平行して実行します。

その大砲は極太のカリ・バリン砲・・・

ダウンロード (1)


ではなく、射程距離は格段に向上した最新鋭のカルバリン砲4門、

220px-Bronze_Demi_Cannon_Culverins_Pmoth

セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門を撃つ合間に、従来型の大筒や石火矢を撃ち、爆音を絶え間なく打ち鳴らし、大阪城城内に篭る心理的に弱い女・子供などに更なる恐怖感を与えたのです。

そして射程距離は格段に向上しているものの、命中率に難があったカルバリン砲のものと思われる砲弾が、たまたま大坂城天守に着弾し、侍女数人が即死する事件が起こったことで、家康の描いた作戦は、見事にはまることとなり、豊臣方は徳川方との和睦におうじることとなります。

慶長十九年(1614年)12月19日、豊臣・徳川の和睦が成立するのです。

その講和の内容とは、
豊臣家側の条件
・本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事。
・淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事。
徳川家側の条件
・秀頼の身の安全と本領の安堵。
・城中諸士についての不問。

この埋め立ては必要以上に突貫作業で予定よりも埋め立てられたため、大阪城は丸裸になり、そののち大坂夏の陣へと突入していくことになる・・・続く。




大坂・・・ミナミの帝王、たこやき、阪神・・・・


クリスマスの居酒屋で河内のおっさん達が、御堂筋線は読みにくいから、メコスジ線でええやろ?

聖夜聖夜(せやせや)

とか

GTはやれるぞ!とクリスマスに噂を聞いた中高生が、GTをグレートティーチャーと勘違いしてとりあえず教員を目指して、教員になってから本当のGTの意味を理解して・・・

早起きは三文の徳やろ??
聖夜な(せやな)!!



名古屋もそうだが、大坂も反応、ノリはいいんだが、いかんせん警備員の目を気にしながらストをしなければならないという、一長一短なところがある。

個人的には梅田、ミナミしか知らないが、ミナミの方が客層が下品。
梅田の方が若干上品。単にターミナルか繁華街かだからだろう。
特に夜は平気でスペックグダを口に出してくる正直者(下品)な人が多い笑

低スペックは大変だよほんと笑



大坂では飲み会、次の日から延々と講習でさすがに疲れきったが、全国どの地方行っても関係なくゲットはできてるので流星道場は全国に通ずる!!ということになる。今回は時間もなく2即だったが。
大坂の噂のGTも行ってみたいけど、延々と講習してるのでGTに行くと講習できなくなるからいけないんだけど、最近ではGT狙いのスト師が増えてあまりGTもおいしくなくなったという報告もあります。
大坂でストるコツは早起きや!なんて美味しい事もいつかなくなるのかなぁ・・・
ストなら大坂は大体夜11時には街がお亡くなりになるので昼間からその時間まででの勝負となります。
ひっかけ橋が厳しい厳しいと言う声もありますが、警備員の目が厳しいだけで反応は全然厳しくないです。
注意はされないけどメモはとられます笑
長くいたら注意されると思います。なので一か所に固まらず街を動きながらストるのがいいのではないでしょうか?

クラブ、GTだけでなく昼間の~夜にかけての健全なストナンもおすすめしますよ(^^)


最近はなかなか純粋にストに時間がとれず、まともな良い子を毎月10以上程度と低空飛行であります笑
が、私個人の実力に関しては今更疑う余地もないが、流星道場に入ればわかるというもの。

毎日のように準即できました、はじめて即れましただとかの喜びのメールが個別にくるから、それも一つの励みになります(^^)
今更自分がスト高即るよりも、道場生が結果が出て喜びの連絡が来るほうがよっぽど嬉しいですね。
真実は流星道場の中にあります。


大坂講習は、マンツーマン講習ではやはり、何らかの結果がでた。

某日(先生)
一緒に連れ出して即。可愛い子と乱れに乱れたと喜んでおられました。
また、とある講習もしてあげたけど、できるようになったかなぁ・・・笑

某日(K)
一緒に連れ出して、買い物、たこやき食べながら和んだり。
なかなか面白かったんじゃないかな?

某日(柔道家)
時間がなかったので一緒に健全連れ出ししたんだけど、時間あれば即れたよなぁ・・・既婚者だったけど笑

某日(布川敏和)
一緒に健全連れ出しした後、講習生に任せた。
講習生はそのままホテルへ移動して即!ストナンでは初即だったようで良い練習になった。俺が二回受けたほうが良いよと言った意味が理解できた。というのは本人談。



講習というのは練習である。本番に向けての練習、講習。
本番は年に何回くるんだい?
その本番で失敗したら目も当てられない。
その本番の為に講習を受ける、練習をする。
その練習において最高の修行場となっているのが流星道場である。


大坂道場生も多くなってきたし、今後も街で会ったり飲み会であったりすることも多いだろう。会った道場生全員に元気を配りモチベを上げるのが私の役目である。
街であった時、飲み会、積極的に私と接触することが凄腕への道である。接触する時間が長ければ長いほどいいことがある。
また、偶然会った時には実力アップをして成長した姿を見せてほしい。


大坂は面白い街である。一度もいったことない方は大坂に行ってみる事をお勧めする。


そして、、、

何故やきそば専門店なんだろう??

と不思議に思っただろう笑

実は大坂でも色々なところに食べにいったのだが、安くて美味しいという事で印象が深く、一度で終わらず二度、しかも公家シンジ君を誘っていったのが焼きそば専門店である。

P018508276_480


大坂の現地人でも美味しいと喜んでくれたし、なかなかオシャレでB級グルメデートにもいいのでないだろうか?
個人的にはやきそばもさることながらキムチもめちゃくちゃ美味しかった。これは私が大坂に行った時に究極のB級グルメコースの定番スポットになるだろう。


楽しくナンパをして楽しくゲットする。
ナンパを通じて人生を豊かにする。


地蔵の人、全然ゲットできない人、準即できない人、即れない人、早く来れば解決します。

次回、歴史シリーズ続きます笑

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次