会津若松籠城戦

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珍毛が増えて髪の毛が減る=髪の毛が珍毛に移動する。

コペルニクス的な珍毛動説。あると思います…流星です。



八重の桜というドラマがありました。幕末の内戦戊辰戦争で翻弄される会津藩の新島(山本)八重の一生を描いた大河ドラマだ。





戊辰戦争は知っていると思いますが、その白虎隊の悲劇で知られている会津の事を詳しく知る人は少ないと思う。会津の悲劇は幕末の荒れた京都を守護(警察のような事)する京都守護職からスタートした。どうみても火中の栗を拾う損しかない役割の為再々固辞するも、松平春嶽公の『会津の藩祖保科正之公なれば、お受けするであろう』の一言に、将軍家茂を助けるためにと時の会津藩主松平容保公は京都守護職を受諾するのだが、このことが後の新政府側に深く恨まれる事になったのだ。





八重の桜の容保公役の綾野剛と実際の容保公。綾野容保は会津の悲壮感を漂わせる素晴らしい名演技を見せてくれた。





大政奉還により降ろす拳を失った新政府軍の矛先は会津や庄内に向く事になる。詳細は端折るが、東北諸藩が奥羽越列藩同盟を結成。東北が戦争の舞台となった。白河口の戦いでの敗戦、裏切り、降伏が続出し、同盟はたちまち瓦解。戦火は会津若松城下まで迫っていた。





『会津は逆賊でねぇ』

八重の桜で八重が叫んだセリフだ。孝明天皇と徳川慶喜から絶大な信頼を受け、最も頼りにされていたにもかかわらず、最終的には薩長から朝敵・逆賊の汚名を着せられ 、朝敵となるようなことは何一つしていないにもかかわらず、会津城下を蹂躙されてしまったのである。

会津籠城戦では新式の七連発スペンサー銃(元込め7連発)を手に、弟三郎の着物を着て大小の刀を差して男装して入城。後年幕末のジャンヌダルクと言われ、前線でスナイパーとして活躍するのが八重の桜、後の新島八重であーる。





後に新島襄からハンサムウーマンと呼ばれた八重さん。会津若松籠城戦、特に初日に目覚ましい活躍をした。

・北出丸御門にて老兵や少年兵を束ねて迫りくる新政府軍を銃で迎撃。有事とはいえ女性が指揮を執るのはありえない時代。

・射程の長い新式銃で前線の指揮官を次々に狙撃。その中には後の元帥大山巌もいた。

・城壁の石垣を押し出し穴を空け、そこから大砲を突っ込み砲撃。

・夜になると刀とゲベール銃を担いで夜襲に参加。

・籠城を想定していなかった会津藩の主力舞台は国境警備で不在の為、八重の活躍がなかったら北出丸は突破され1日で落城していた可能性もある。


・当時は女を戦場に出すと藩の恥、という風潮から仕事を与えておけば抜け駆けして夜襲に出かけることもあるまい、と女中の仕事をどんどん回されるくらい八重は目立っていた。

・容保公の要請に応じて大砲の不発弾を分解して仕組みを説明する。

・落城後も男に混ざって謹慎地の苗代に向かおうとするも、途中で女性だとバレて放免される。



とにかく活躍した八重さん。山本八重子の手記には籠城戦の時の事を「一番、心配でたまりませんでしたのは、厠に入っているときでございました。武家の夫人として一矢も報いずに犬死するようなことがあっては、主君に対しても家名に対してもまことに恥ずかしいわけですから、たとえ流れ弾に当たって死ぬまでも、戦えるだけ戦って、立派な最期を遂げたい一心でございました」





八重さんだけでなく会津女性、いや会津人が凄まじい抵抗を見せた。

・家老西郷頼母の一族が足手まといや敵の辱めを受ける訳にはいかないと21人の女性が辞世の句を書いて自刃。



・足手まといや辱めを受けるならと自刃した会津藩士の家族が200名以上いた。

・入城時に足手まといになると乳のみ子を殺して入城する女性の姿もいた。

・中野竹子率いるなぎなたの婦女隊も戦った。(異例の出来事)

・なぎなたを持って夜襲を仕掛ける女性がいた。

・城内では時に1日2000発もの砲弾が飛び交う中、女性達は塗れた着物や布団で砲弾が爆発する前に抑える焼玉抑えを行っていた。その中には子供も参加していた。しかも爆発してけがをした場合、苦しい時は元気な者が負傷した者を介錯すると約束をしあっていた。





会津には、女は敵に恥をさらしてはならないという教えがあった。仮に敵兵に陵辱されるようなことがあれば、それは末代までの恥であり、その前に自決することが武士の妻女の作法とされていた。

なんだか会津の女性ってヤバくない?

会津女性=ヤバイ



流星会津イメージ

「ならんものはならんのです!ゴムはつけねばならぬものです!!」





「ゴムは必ずつけてくなんしょ!!」







激戦の若松城、彼岸獅子入城で知恵大蔵と呼ばれた知将山川大蔵。



寝坊で失敗するも最後までゲリラ戦をして戦った鬼官兵衛。



八重の桜を全部見た流星は会津へ行きたくなって、一緒に旅をしてくれる人を募集。別に会津が好きでも何でもないくろけい君が何故か参加。くろけい「会津ってストれるんですかー?」流星「絶対期待しない方が良いと思うよw」




流星(´-`).。oO(ここは旅ナンパの〇クマさんなら会津に行ってるだろうからその時の記事を参考にするしかない)



〇クマさんブログ

会津若松駅に到着



喜多方ラーメン巡り、会津若松城へ







17時過ぎに再び郡山へ



流星『思いっきり会津スト避けられてるー(´・ω・`)』



『嫌な予感がする』





会津に行かないか?と誘って、何とか2人の講習生を見つけて一路会津へと向かう流星。途中くろけい君と郡山によってさくっとお互い即。18-22時で流星は2連れ1即。

会津のホテルについたのは夜12時過ぎ。その日は休んで次の日の観光に備えてノースト。



翌日会津に来たがっていた奇特なカイ君とも合流して次の日向かったのはまず二本松城。二本松城は郡山の上の方にある。一旦郡山方面に戻ってから二本松へ。会津-郡山間は約60キロ。





カイ『会津って陸の孤島みたいですねぇ』

くろけい『流星さん、初日会津に泊まった意味って何かあるんですか?郡山で宿泊しても良かった様な…』

流星『え??ほら、会津のホテルの方が安いじゃん…笑(会津に泊まる、それに意義があるのです)』



そして二本松城では予想以上の良さに感動。ちなみにここも戊辰戦争の激戦地。二本松少年隊はあまりにも有名。











そして王子湯(会津から片道約100キロ)最高!地温泉にハズレなし。









風呂上がりの昼飯。有名なそば屋さん。ここは美味かった。







そして白虎隊の悲劇、飯盛山。









一同『何か暗い、何か出そう』

流星『こんな薄気味悪い所で城燃えてたら自害するわー』

飯盛山は地元でも有名な心霊スポットの様。とにかく雰囲気が暗く、これなら自害するわーって納得の場所でした。





そして会津若松城。日が落ちる寸前に見れて良かった。







そしてまた貸出時間ギリギリに帰ってきて諸々準備。準備を終えた者が先に駅に行って取った様子。







この様子を他の講習生達にレポート

『深夜の日暮里駅よりヤバめな雰囲気じゃないですか(>_<)』



洗濯で出れなく、講習生達に突っ込まれる流星。





くろけいは人が居なさ過ぎて車で街を徘徊して声掛け笑

流星が街に出れたのは21時半。ここから夜飯タイム。ストるのはそれから。ちなみにまずはTSUTAYAだと思って向かったら既に閉店。たぶん20時閉店と思われる(前代未聞)





街のメインストリート(21:30)





流星(´-`).。oO(会津に来ただけで満足。外に人が居なかろうがどうでもいい)



謎に役所やパチンコ屋がオシャレ。









途中唯一いた声掛けできるコンビにカイ君と声掛け。(1声掛け目)

ご飯は食べたからカラオケなら良いと連れ出せる流れになったけど、桜鍋食べたいし、女の子を連れて店に行くと高いしで、流星の腹ペコ桜鍋食いたいグダで放流。ていうか会津に来ただけで十分満足。ストは最初から期待していない。



ちなみに繁華街はこんな感じ。(22時前後)









そして楽しみにしていた桜鍋の店が…

なんと21時半でもう閉店!

っていうか21時半ラストオーダーで行く店行く店全部が22時までには閉店!!マジでヤバイ。食べる所すら見つからない、前代未聞の事態。良さげな店10店以上回るも、全部閉店!

これが明治政府から恐れられた辺境の地か(>_<)



で、地元民が大量に中から出てきた、営業してるお店を何とか発見。地元の人に評判を聞いたら美味いと言っていたけど、地元民の美味いは全然信用できないけど、仕方なく入店。この店に行く途中に夜の店のキャッチの子に声を掛けられる。





OBA『部屋あいてねーから無理だ』

流星(´-`).。oO(今大量に客が出てって、空いてねーはずねーだろ!怒)

OBAが去って、若い店員が来るまでと、しばらく仁王立ちで待つ流星カイ。

OBAスタスタスタ『何人だ?3人なら入れるかもしんねー』

なんとか入店。味はまあ普通。

退店時

流星『あれ?他の客もういない』

おばさん店員『お客様達が最後です!(強め)』

一同『き、きびちーーー(>_<)』

色々な店で感じたけど、福島県って何か厳しいっていうか融通が効かないというか。なんとなく会津のイメージ通りという感じでニンマリ。



飯を食って出たら深夜0時。人がいないか付近を少し回るも…お察しの状態。





繁華街一番のメインストリートっぽいとこ。





ストできるような街の状態ではない為、記念に夜の店でも行こうという所で、夜の店へ。キャバはなく全部スナックみたいな店しかないらしい。

仕方なく空いてる手ごろな店へ行く3人。

流星に着いたのは一番若い子。カイはギャル。くろけいについた子(推定50のガリガリギャルババア)は、登場した時全員が飯盛山から亡霊が来たと思ったほど。



流星カイの卓は盛り上がるも、。圧倒的コミュ障の幽霊BBAにくろけいの卓は母成峠状態。これが会津のリーサルウェポン、核の抑止力。我慢汁すら1滴も出そうにないくろけいだけ完全に罰ゲーム状態なので早々に退店(深夜1時半くらい?)

外に出ると仕事帰りの飲み屋ぽい女は若干歩いてるものの、完全に送りで帰る途中で、近くにスタッフもいる鉄壁のディフェンス。あと、街にいる輩達との知り合い感もヤバイ。挨拶くらいの様子見しかできない感じ。

これはノーチャンで終了かなぁと諦めたところで、コンビニでずっと客?と話してた若い子が1人になったので声を掛けようとしたら、向こうから話し掛けてくる。

若い子『なんで店に来てくんなかったのー?』

流星??

なんと、飯を食いに行く時に声掛けられて少しだけ話したキャッチの子だった模様。この子を連れ出す他、選択肢はない。

粘る流星。グダる会津女子。

『ならぬものはならんのです。ついて行くのはならんのです』

コンビニ内で粘られる(籠城戦)。何で遊ばなきゃいけないの?この時間店やってないから行くとこないよと色々グダ。何とか一瞬外に連れ出すも、またコンビニ戻られる(籠城戦)。外に出てコンビニに戻られる一進一退の攻防が30分以上続く。くっこれがストの会津籠城戦か!

これが会津若松城で籠城した遺伝子を受け継いだ会津女子か(>_<)

最終的にホテル連れ出しの流れでホテルへ向かうも、中々歩かない。まさに遅滞戦術!遅滞戦術に対して流星のらりくらりで牛歩のように20分以上かけてホテルへ向かう。たぶん合計1時間以上はかかっている感覚。

そしてホテルで会津即!(ホテルin後はあっさり陥落笑)

しかし、連れ出し~即中もスナックの子とラインをやりとりをしていた流星。スナックの子とも遊べそうな雰囲気に。ここで電話だ!というタイミングの時、セックス中だった為、押しの一手が使えず送りで帰られる。こんなことなら店にいる時にアフター強く誘っとけばよかった(>_<)

2声掛け1即

当初からストに期待はしていなく、ほんと運よく即れただけで、準即も行けただろうという可能性が見えただけで十分だった。会津の地に行けただけで満足だった。ただ、人が歩いてないからストる場所ではないという事がよくわかった。カイ君、車で移動しながら声掛けしたくろけい君もトータル5声掛け前後くらいしかできなかったようだ。会津はストる場所ではなく、歴史を楽しむ場所。日新館や頼母邸等時間が無く回れなかった場所は沢山ある。彼岸獅子の祭りも見たいし会津は観光でまた行きたい、そんな魅力がある街でした。





1カ月戦い抜いた会津若松城もいよいよ降伏の時を迎え、容保公は降伏の白旗の製作を命じました。といっても、包帯は負傷者の手当てに使われており、まともな白い布はどこにもありません。やむをえず白い端切れをたくさん集めて縫い合わせて一枚の大旗に仕立てたのです。八重はこの時の様子を「縫う者は涙で針が進まなかったと申していた」と後日述べています。後年も落城した時の事を「この時のことを思い出すと今でも切歯扼腕する」と如何に口惜しかったか語っています。

明治元年(1868年)9月22日。籠城からちょうど30日目の朝。大手門に白旗が揚がります。旗には大きな文字で降参と書かれていました。これにて会津藩の、そして八重の戦いは幕を閉じたのです。会津藩の死者は戊辰戦争最大の2500人越え。如何に勇敢に愛する国を守ったかを物語っている。



明日の夜は 何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ



会津は改易、斗南(青森)に移った旧会津藩士たちは予想以上の厳しい気候と3万石(実質7千石)の荒廃した土地により死者が多発したという。





幕末の会津と言えばやはり山川兄弟だろう。

大蔵は彼岸獅子の入城、戊辰戦争後は斗南藩で大参事を務め、その後は日光口で戦った谷干城の勧めで陸軍へ。西南戦争の熊本城での戦いでは恩人谷の為に援軍として一番乗りで熊本城に入城。陸軍大佐、少将、さらに貴族院議員にまでなります。明治政府から徹底的に嫌われた会津出身でここまで出世できたのは並み大抵の実力ではありえません。

弟の健次郎は、アメリカのエール大学で日本人初の博士号を取り、さらに東京帝国大学(現在の東京大学)の総長を務めるほどの秀才でした。朝敵の汚名を着せられた会津藩からの最高学府の総長就任はまさに異例のことであり、旧会津藩の関係者は涙を流したそうです。その後も51歳で貴族院議員、52歳で東京帝国大学総長を辞任するも、58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で再び請われて東京帝国大学総長に復帰、61歳で京都帝国大学総長を兼任、62歳の大正4年(1915)遂に男爵となりました。

妹の捨松は、日本人初の女子留学生。捨松はアメリカからの帰国後、元薩摩藩士の大山巌元帥と結婚(ちなみに大山元帥は会津若松城に大砲をぼんぼん撃ってた指揮官)。大山元帥とのデートの時は薩摩弁が理解できず「閣下の日本語がわかりません。閣下さえよければ英語かフランス語でよければお話しをさせてください」と提案。大山元帥は流暢な英語で返事をしたそうで、夫婦になっても英語やフランス語で会話していたとか。社交会では英語、フランス語、ドイツ語、アメリカ仕込みの社交ダンスを駆使して諸外国の外交官とも堂々と接し、洗練された美しさと抜群のセンスの良さで「鹿鳴館の花」と歌われたほどの才女。後年、日本初の看護婦学校(有志共立東京病院)の設立に寄与します。学校設立時の資金難にあたっては日本初のチャリティーバザーを開き、大きな収益を上げました。愛国婦人会理事や、赤十字篤志看護会理事にも就任。華族女学校の設立や、津田梅子らと共に果たした女子英学塾の開校など教育関係に貢献しました。



朝敵と呼ばれ蔑まれた会津人達は現代日本の教育界に深く貢献しているのです。

山川大蔵(浩)、健次郎兄弟は後年「京都守護職始末」を著します。会津は朝敵ではなかったと世間に訴えたのです。当時会津藩主だった松平容保公が孝明天皇から御製を入れた御宸翰を賜ったことを初めて世に明かしました。もっと早く御宸翰の存在を公にすれば、会津藩が朝敵ではなかったという証拠になりましたが、容保公は終生肌身離さず、誰にも見せず、政治的な駆け引きに使わなかったようです。それが容保公の生き方だったのでしょう。



さて、八重の桜の綾瀬はるかさんのイメージが強い八重さんですが…

「おっかさま。わだすは三郎と一緒にお城に上がりやす。今からわだすが三郎だ。逆賊呼ばわりして会津を滅ぼしにくる者たちを、わだすは許さねぇ。わだすは・・・戦う!!!」





実物の八重さんは…





綾瀬はるかさんの雰囲気は全くない体格が良い女性でした!(60キロの米俵持ち上げるくらいだからね(;・∀・))

しかしこの八重さん、同志社大学の設立に関わったり、従軍看護婦として活躍してに勲七等宝冠章、勲六等宝冠章を貰ったり(民間の女性で初)、晩年は借金したり、改宗騒動、裏千家の師範になったりと、とにかく濃い人生を歩んだ女性でした。



司馬遼太郎氏が会津の事をこう語っています。

「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。三百にちかい藩のなかで肥後佐賀藩とともに藩士の教育水準がもっとも高く、さらに武勇の点では佐賀をはるかに抜き、薩摩藩とならんで江戸期を通じての二大強藩とされ、そのうえ藩士の制度という人間秩序をみがきあげたその光沢の美しさにいたってはどの藩も会津におよばす、この藩の藩士秩序そのものが芸術品とすらおもえるほどなのである。秩序が文明であるとすれば、この藩の文明度は幕末においてもっとも高かったともいえるであろう」

会津の事を良い事を書いてはいるが、会津だけを贔屓するつもりはない。会津の百姓は武士階級を維持する為税が重くどの藩の百姓よりも貧く、北海道の領地を勝手にドイツに売ろうとしたり、贋金を作ったり、他国への略奪もあった。国としても旧態依然としていて、柔軟に対応できなかった。ただ、会津防衛戦は徳川への忠義の為ではなく、武士としての誇りの為に戦ったのでしょう。将軍の首より玉砕を選ぶ。籠城して徹底抗戦しても1人の脱走者を出さないほど統制され、武士の家族の末端まで心得が行き渡っていた事が、会津藩の凄さでもあり、悲劇にもなったのだと思います。



会津には『会津3泣き』という言葉があります。

①会津に来たときはその閉鎖的な人間関係に泣く。

②なじんでくると人情の深さに泣く。

③去るときは会津人の人情が忘れ難く泣く。



というものです。

スト師3泣きというのもできそうですね。

①タゲがいなくて泣き。

②夜の店はBBAばかりで泣き。

③GETできないと泣く。



限界集落というのはデッドオアライブ。寸でのところで生を掴めるかどうか。坊主でもGETでも空は変わらない。



次はガトリング家老にも会いに行きたいですね。




グッパイ、また会わん!

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