尾張出稽古3回目+7月後半戦

尾張国・・・
数々の武将を輩出したこの地にはやはりエネルギーが沸いている。

今回は名古屋に行ったのに一度も観光してないのは、やばいだろう笑
ということで名古屋城を見てきた。
名古屋城は別名、
「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。

今回の名古屋行きは観光のためといっても過言ではないだろう。

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名古屋城を作った由来は、関ヶ原合戦の勝利した徳川家康が、
大坂城の豊臣秀頼との武力衝突に備えて各地の城の整備を進めていて、
大阪城包囲網を形成した城のうちの一つである。

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徳川家康は、攻め寄せる敵は西国と想定していたので、
実際の防衛戦として置かれているのは「名古屋城」です。

名古屋城は、城下町が城の東側に設けられているので、純粋に城だけで敵を防ぐことが
できる構造で、1万くらいの城兵で10万程度の敵の攻撃には充分耐えられる
規模を持っているそうです。
嘘か本当か、もともとの総構えは、あの防御要塞の江戸城よりもさらにデカかったらしいです。
しかし平和な時代が来たということで、完成しなかったみたいです。
シンプルですが広大な内郭(本丸・二の丸・三の丸・西の丸・深井丸)を持つ城郭です。

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第一印象はこれを攻め落とすとなると大変だと思いました。
まさに堅城。門や櫓の構成・配置は極めて厳重に造られている。
広い水堀を越えて攻めるのは無理なので、攻め口は守りの堅い門構え中心になるでしょうが、突破は困難かと笑やはり内部と呼応するとか謀略を使わないと、正面突破はかなり大変そう。
さすが徳川御三家筆頭の尾張徳川にふさわしい城だと思いました。
中も見てきましたが、すごい楽しめました!
天守閣から見る景色を一望しながら、当時の時代に思いを馳せる。
名古屋城、見てよかったよ


次に向かったのは・・・・
尾張での代表的な戦いといえば、桶狭間だろう。
今川義元が上洛しようとして(否定されている?)その途中の尾張を攻めるわけだが、
今川氏は一時尾張の守護を兼ねていたこともある。
以前から小競り合いを起こしていた織田氏と今川氏。
信長に大した兵力がないことを見抜いていながら2~4万もの大軍を引き連れてきた義元。
5000に満たないほどの兵士でこれを迎えなければならなかった信長。
信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2000から3000人といわれる軍勢を整えた。

wikiによると、
桶狭間の戦い。

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正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら300余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかしこれは勇み足となって逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利にさらに気を良くした。
13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。織田軍はこれに乗じて兵を進め、雨が止んだ直後の14時頃、織田軍は義元の本隊に奇襲をかけた。今川軍の総勢は2万人であったとされるが、義元を守る兵力は5,000から6,000人に過ぎず、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。
『信長公記』によれば、義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。『改正三河後風土記』によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。
総大将であり今川家の前当主である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の大勝に終わった。

さらにwikiによると、
迂回説と正面攻撃説があるが、
織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長があらかじめよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとしてしばしば語られるところである。
しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説の論によれば、信長があらかじめ情報を収集していたという見解にも無理があることになる。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所が一定している保証はなかったはずである。何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。

この記述を素直に信じるならば、つまり信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、大高城から出撃してきた敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけだったということである。
すなわち『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。

一方、この説を考慮に加えて今川方の条件を考察すると、そもそも今川方は油断していたかどうかに関係なく、この戦いにおいて非常な悪条件が重なってしまったと考えられる。沓掛城から出てきたばかりの時点ならば、隊形も整っていなかったはずで、十分に準備を整えた新手に猛攻を受けたとするならば大混乱に陥り、壊走することはありうる。すなわち、桶狭間の戦いは今川軍にとっては不期遭遇戦であったと思われる。さらにこれに、戦闘前後の偶然の雨天と、地形が窪地あるいは丘陵であったために混乱すれば本隊が撤退しにくい、などという条件が重なる。つまり、信長から攻撃を受けて今川勢は混乱を来たし、そしてその混乱は一時撤退して立て直せば十分に収拾が可能だったのであるが、それを行う間もなく、運悪く今川義元本人が討ち取られたということである。

以上の論点により、信長の奇襲とは地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、タイミング上の奇襲であった、あるいは偶発的に奇襲になったのではないか、という解釈になる。このように『信長公記』を全面的に依拠する論によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた成功ということになる。

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その他面白い話では、尾張領で、もう信長ではなく義元様の時代ですともてなした領民の
中に蜂須賀小六が混ざっていた。スパイをたくさんはなっていた。
信長軍の動きを監視していたはずの葛山延貞《かつらやまのぶさだ》が信長の進軍を報告しなかった、それは武田信玄が今川に入れた間者だった。
などですかね。

おぉ流星さん、桶狭間の戦地でも見に行ったんですか??


違います笑

もうわかったかな??

信長は敦盛を踊った後、清洲城を5騎ほどで、出陣し寄り道をしました。
清洲城を出た信長が向かったのは・・・・・

そう。

《熱田神宮》です。

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18日の夜に出立し、翌19日の午前8時頃に熱田に到着し、その時にはようやく300騎程の兵が信長の下に集結しました。しかし「信長公記」によると、熱田に着いた時、信長は同神宮の摂社・上知我麻神社の前で、東方に二条の煙が立ち上るのを見て鷲津・丸根の両砦が陥落した事を知ったとの記述があるので、織田軍にとっては依然として不利な戦況が続いていました。

熱田神宮に着いた信長は、右筆(ゆうひつ)の武井夕庵に『この戦いは多勢に無勢、苦しい戦いとなる。熱田大神の力を借りて、是非勝利したい』という趣旨の願文を作らせ、御神前に跪いて、集結した兵達の前でこの願文を読み上げ戦勝を祈願しました。この時、本殿の奥から甲冑の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が舞い立つという吉兆が顕れたそうで、
信長は「これぞ、熱田の大神が我々を護り、勝利に導くしるしである!」
と兵達を激励しました。
そして軍勢2000余りをともなって桶狭間へと向かうのでした。


行ってきました!熱田神宮!!

最初、信長塀のせいでずいぶん回り道してしまいました笑
え?信長塀って??

桶狭間での戦勝後、信長は清洲城への帰途に熱田大神の御加護に感謝するため、
再び熱田神宮に参拝し、神馬1頭を奉納しその後更に今も境内に残る、
土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねた「信長塀」を奉納しました。
この塀は、三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と共に、
「日本三大壁」の一つと云われています。
それだけでなく信長は、熱田神宮以外にも伊勢の神宮や石清水八幡宮、
賀茂別雷神社、賀茂御祖神社などの大社にも造営料を寄進しており、
戦国の世の混乱のため中断されていた祭祀の復興に貢献しました。
このため、仏教勢力(もっとも、当時の大寺院は“仏教”という蓑を被った
純然たる軍事勢力でしたが)にとっては「鬼」や「悪魔」のように思われていた信長ですが、
神社にとっては、信長は「大恩人」ともいえるのです。


この熱田神宮は創祀1900年を迎えております。
元々はヤマトタケルノミコトがお妃のミヤスヒメノミコトの手許に、
草薙の剣(天叢雲剣)を置いたまま亡くなられ、ミヤスヒメノミコトがその後、この熱田の杜に神剣を祀られたのが、この熱田神宮に始まりだとされています。
この草薙の剣は三種の神器で有名ですね。
三種の神器とは、草薙の件、八咫鏡、八尺瓊勾玉の三つです。
もはやファンタジーだよぁ笑
ちなみに壇ノ浦の戦いで幼少の天皇とともに海に沈み、義経らが探したときは、
勾玉と鏡は見つかったけど、剣は見つからなかったそうです。
今祭られている剣が本物かどうかはさだかではないそうです。
ここのご神体、熱田の大神は天照大神だそうです。
天照大神は、言うまでもなく皇室の御祖神として至高至貴の神と仰がれ、人々にいつくしみの徳をあたえられる神であります。

この草薙の剣には色々オカルトがあるみたいです笑
本当は剣の形ではないそうです。
形状は「錆びることのありえない素材」=金無垢で、さらに7つに枝分かれし、
その先が左右に羽根をひろげるが如く長く手を広げているという、
材質・形状どちらも剣としてありえないものだったという。
あくまでも祭祀用のとして造られたと思われる。当時の大宮司は、
自らの日記の中で御神剣が七支の形状をなしていた事実と、
記紀中のヤマタノオロチより剣がいでたとの伝承を結び合わせ、
ヤマタノオロチの八つの頭がそのまま草薙神剣の七支の穂先と幹の
突端になったのではないかとの自説を記しているという。
儀 式中に起きたことは、大宮司が祭文を唱えるにつれ、御体が唸り声のような重い音声をあげたかと思いきや、祭殿の左、西の方角に向けて自らいざりはじめ、そ のまま震えて祭文を唱え続ける大宮司に代わって、御神剣を押しとどめようとした禰宜職が触れた途端、口より青い炎を上げて体が燃え上がり、骨も残さず溶け るように一片の黒い炭になってしまったという。

オカルトも材質がウランなら、
そういう事がおきるのかなーって感じですね。


この二つを見とけばとりあえず何とかなるだろうと。
本当は徳川園も見たかったけど、疲れきってたので今回はパス笑


名古屋講習ではマンツーマン講習全でなんらかの結果が出た。
中には即確定も、懇親会の方を優先する方もいた。
もう流星道場は完全に男塾だよなぁ笑

otokojyuku

懇親会の後の6対6の緊急クエストも楽しかった。
そこで即した方も数人でた。
講習で初即を達成した方もいた。

愛と涙と即のファンタジーな名古屋講習だった。

私個人はというと・・・

観光終わった後疲れたーヤル気ないヤル気ないいいながら、
街にでるとさくっとハーフ子のD生のスト高連れ出しの即

講習1日目終了後、懇親会からの反省会。
疲れたよ笑

最終日は講習生が連れ出してる間、
どフリーになった隙にしかたなく声掛けしてSKEにいそうなスト高を即

その後また講習生が声掛けでいなくなった時にどフリーになったから、
また仕方なく声掛けしてど変態っ子連れ出して、講習生をよんでの正3で即
俺の前に講習生声かけてた見たいね笑
まさかの偶然笑
講習生初即の後の2即目。こういう時もあるさ笑

プライベートナンパは初日30分しかしてなくても、、、、即れるな笑


そして7月後半戦の一部講習ダイジェスト!!

某日(ムエタイ氏)
個室連れ出しに成功。
しかし即ならず。



某日(アデランス氏)
コンビで連れ出し。
しかし片割れがとんでもないウザキャラだった。
大抵可愛い方はやれる感じだけど、可愛くないほうがお邪魔ぷよ笑
ウザザザザ・・・・


某日(チム氏)
健全連れだし。後日遊んだかは不明。
この日バンゲした外人とは後日遊んだ模様。


某日(ナンパンファンクラブ会長K氏)
鬼!悪魔!という視線を受けながらも、マス大山対応笑
ヒーヒーいってたけど、どんどん男らしくなっていく。
最後はかっこよく颯爽と連れ出して行った。
最後の最後でグダられるという落ちすらドラマティック笑


某日(お年寄りのタバコ氏)
個室連れ出し成功も、すぐに放流するはめに。
あまりに自然にナンパをするため女の子もナンパでやられる感を感じないのが、
かえって迷惑な感じ笑
それでも空気読んで女の子を不快にさせる前に放流したのが良かった。


某日(インド食師)
某金をくれの女の子に似てた子。
健全連れ出しからの、個室連れ出し。
りーせじゃなければ即れてたんじゃないかな?
本人も自力で初ぎらで下攻めまではいけたので満足したみたい。
AFCでもなんとかなるもんだ笑


某日(小チザイル氏笑)
数年前のギャル子連れ出し。
やはり空気読めず、雰囲気を作れなく途中まで。
その経験をたくさん積むと、だんだん雰囲気読めるようになります。


某日(名俳優氏)
一緒に健全連れ出しして和み重視作戦。
しかし、途中で脱落者へ転落。
酒に負けてはいかーーん。
がっつり流トーク聞いたから大変勉強なりましたとさ。


某日(安西先生)
ビシビシ!ビシバシ!!
う、うぐ><、とまさに三井状態笑
しかし講習後諦めないでストり、すぐにスト高のjハーフ子をゲット!!
やっと俺の事信用したか笑


某日(AFCスープ氏)
ガッツリ食いつきもあったような感じ連れ出したのになかなか決めれない。
途中で戦線離脱してきたので、
逃げる者は切る!!と戦場へ送り返す笑。
女と最後合流させて、最後の戦いへ~
次にあったときにはイキイキしてたからコンソメスープに昇格だな笑


某日(水着氏)
一緒に某テーマパークへエセ清楚子を連れ出し笑
なかなか攻めあぐねていたところを手助け。
がっつり変態に変身させて即。
ニーズに答えたな笑。


某日(スクリューパイルドライバー氏)
健全連れ出し。流ヨイショで場を温めて抜ける。
次の日某イベントがなかったら絶対即れてたと、
本人も自信をもった事でしょう。


某日(国産車氏)
個室連れ出し。即までの雰囲気を味わう。


某日(Mちゃん氏)
コンビで個室連れ出しでセパ。
本人もかわいい子と遊べてご満悦笑


某日(ねこひろし氏)
健全連れ出しで解散後、ねこ連れ出し!ねこパイパイ!!
連れ出しできないできないいってたけど、流星道場であっさりいけそうな
とこまで行って、本人も手ごたえを感じる。
少しは信じてくれたかな?笑

某日(ゴウデース氏)
個室へと消えた後、ホテルにてきっちり即!
1000人以上声掛けても数即だったのに、
流星道場では20声掛けで即。
即までもってけた事に本人も手ごたえを感じた。
バッ!(ジャケットをバサッバサッ!笑)


以上

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