転戦に次ぐ転戦、たこやき、かに、そしてAFCとの決着。北の地で最後の桜が今、舞い散る。

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先日、黒執事のコスプレにチャレンジしてみました。。。

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与沢○になりました!

 

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流星です!!


これは、はるか未来の話。


見事におじいちゃんの一押しで、DQNネームをつけられてうんざりしている流星少年は、
地方に住んでいる痴呆のかかったおじいちゃんの与太話を聞くのが好きな少年であった。

爺『おお よくぞきた ゆうかんなる オル・テマンのむすこ りゅうせいよ』

流星少年

 

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流星少年「おじいちゃん、それ毎回うまいの棒と軍資金300Gしかくれないからもうあきたよ。」

流少「それよりおじいちゃん、全国制覇の話をもっときかせてよ!」

爺『そうかそうか、では流よまずは修羅の国について話そうかのう、、、
九州についたら街が不毛でのう・・・・特に美もいない。とんでもないところに来てしまったと思ったのじゃ。
大久保公家通という志士がおってな。それに騙されたと思ったのじゃよ。』

流少「どこかで聞いた名前だけど、それってどんな人??」

爺『やたらウェストを進めてくるのじゃ!!』


今回は戊辰戦争の事を趣味で入れてますが、まったく興味のない方は戦争描写の部分を飛ばしてお読みください。
そうするとすぐに終わります笑


福岡藩・・・・・
福岡といえば黒田藩!黒田藩といえば、今大河ドラマにもなっている黒田官兵衛!

黒田官兵衛とは?
黒田官兵衛、諱は孝高、のちに如水は、天文15年(1546年)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれる。
永禄10年(1567年)頃、官兵衛は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。
天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた官兵衛は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言し、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。
天正5年(1577年)小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する三木通秋の所領である英賀に上陸させ5,000の兵で播磨に攻め込ませるが、
官兵衛は500の兵で毛利・三木軍を退ける(英賀合戦)。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。
天正6年(1578年)孝高は荒木村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず幽閉される。ここでの生活は、のちの官兵衛の人生を大きく変えるほど過酷なものであった。
1年後、有岡城は落城し、孝高は家臣の栗山利安によって救出された。官兵衛は織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている。
天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。
これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。

これは後世の創作かもしれないが官兵衛の有名な話では、
彼は後に黒田如水と改名する。それにはこんな経緯があった。
あるとき、秀吉が家来たちにふざけ半分でこう言った。「自分が死んだら、代わって天下を保つのは誰か?遠慮なくいってみよ」。
家来たちは、当時実力が喧伝 されていた前田利家、徳川家康などの名を口にしたが秀吉は頭を横に振って答えた。
「違う。それは、あの黒田官兵衛だ」
「しかし彼はたかだか10万石の大 名。とても天下人になどにはなれないのでは?」と家来がいう。
そこで秀吉は言った。「自分はこれまでの合戦で、あれやこれや決めかねたことも多い。そんなとき官兵衛に尋ねるとたちどころに裁断し、自分が練りに練った考えと一致していた。
ときにはワシの意表をつく考えさえ何度かあった。あの男の心は剛穀で、思慮深く、まさに天下に比類ない。
彼が望むなら、いますぐにでも天下を譲るだろう」。
これを伝え聞いた官兵衛は、「これはわが家の災いの元」とつぶやき、剃髪して如水と号したのだ。
秀吉が語るこの手の話は、「百万の軍の指揮をとらせてみたい」といわれた大谷吉継や蒲生氏郷にもある。
ただ官兵衛の凄みは、我が子秀頼の将来を考えた秀吉に、
禍としていずれの日にか滅ぼされるかも知れないという危険を察知し、あっさりと剃髪・隠居をしてしまったことにある。
もちろん隠居後も、その凄みは衰えていない。秀吉死後、天下は東西に分かれ、その帰趨がどうなるか見当つかなくなっていく。
そこで官兵衛は大志を抱くのだ。東西の争乱に乗じ、自ら九州を統一。その勢いにのって中央で三成、家康と対峙しようと。
息子・長政が家康側に加担したため、結果として東軍として九州制圧に乗り出したわけだが、連戦連勝。いよいよ大志に向かって、、、
というわけにはいかなかった。
関が原の合戦が一日で終わり、天下は徳川家康のものになってしまったからだ。
こんな後日談がある。関ヶ原の戦いで東軍が勝ち、手柄を立てた長政が官兵衛にむかって、
「家康公は我が手を取って、頭に押しいただき、『この勝利はひとえ に御辺のおかげでござる』と申されました」と得意気に報告した。
その長政に、官兵衛は、「家康公が押しいただいた手は右か左か」と聞き返したという。
不思議な問いにまごつきながら、長政が「右手でありました」と答えると、官兵衛は「その時、おまえの左手は何をしていたのか」。
長政は思わず絶句した。空 いているほうの手で家康を刺し殺すことができたのではないのか、という意味だったからだ。
結果として、関が原の合戦の論功にも官兵衛の名は挙がらず恩賞はなかった。
家康が官兵衛の実力を恐れたからだといわれている。

飲め飲め酒を飲みこみて  日の本一のそのやりを
とりこすほどに飲むならば  これぞまことの黒田武士

初代福岡藩藩主が官兵衛の息子長政。
最後の藩主は実質、黒田長博。ハイカラで学問好きの「蘭癖大名」。
明治維新には乗り遅れたが、あの勝海舟をして「一番できた殿様だ」と言われたほどの傑物。


とまあこの辺にして、福岡ではやはり天神駅周辺。
夜のリバーサイドの屋台で若い女達が屋台で飲んでいるかと思いきや、、、全然若い子いません!
それか深夜帯から早朝の中州!
昼に行ってもだれもいません笑
天神はスカウトもけっこう多い。スカウトの多さでその街の反応が変わる。
スカウトが多い街は女の子の反応が著しく悪くなる。ナンパにとっては害悪です。
福岡の人がほんとか嘘か福岡の女が可愛のではなく、福岡に来てる熊本の女が可愛いのだそうだ!
熊本・・・・一度は行ってみたいのかもしれないな。

その後の公家どんの情報によると、あの時は時間とタイミング悪く、普段の週末の街はすごく良いそうです。
ちょうど行った時に良いタイミングじゅないとまったく意味ないんだよな・・・| 壁 |д・)チラッ
しかし、過疎ってたなぁ・・・・・笑

爺『その時の過疎った福岡での副作用が、この腹でごわす。』

流小「もつがたくさん詰まってるドン」



そして舞台を関西へと移す。

薩長土の新政府が台頭し、大政奉還した慶喜だがそれに納得できない旗本達も沢山いるため、
新政府としては、「徳川は目ざわりだ。叩き潰したい!」と思っていて、
特に西郷隆盛なんかは「徳川は、徹底的に叩かんといかんでごわす」と思っていた。
だから、薩摩藩は江戸の町中を破壊したりして、旧幕府の人達を挑発する作戦にでる。
これにより徳川の旗本や徳川幕府に親密な大名たちが怒り「倒薩だ!」という声がでかくなり、
ついに慶喜も抑えきれず「倒薩」の命令を出してしまう。
西郷隆盛にとって思い通りの展開だ。

それで、会津藩や桑名藩、新撰組などは、「慶喜様の上京のお供」を名目に京都を封鎖するために、
討薩表を掲げ大坂から京に向かった。
しかし、京都に向かう途中の鳥羽街道はすでに薩摩藩が封鎖していた。
京都を封鎖が目的の慶喜軍、徹底的に徳川を叩きたい薩摩藩。

この激突が『戊辰戦争』の初戦、1868年の『鳥羽・伏見の戦い』と呼ばれる。
幕府軍は1万6000以上、それに予備兵数万、対する新政府軍はわずか5000以下。
新政府軍は、「待ってました!」と、これに応戦。
会津、薩摩をもって天下最強といわれものだが、その近代化の差はくらべものにならない。
いくら兵力で勝ってようと戦国時代の戦略、装備では歯が立たない。
おまけに、明治天皇様から「慶喜追討令」まで受け、。
「天皇様の軍隊あるぞ!」って印の『錦の御旗』を掲げてた事により優劣は完全に新政府軍へ。。
こうなると、単に慶喜軍と新政府軍の喧嘩じゃなくなるわけなので慶喜軍は完全に朝敵になってしまう。
『錦の御旗』を見た幕府軍の武士の多くは、「天皇様には刃向えない」と戦意喪失になってしまう。
そして慶喜は尊王論者であった為朝敵になるのを恐れた。
戦線はガタガタになり、完全に武装でも上回っている新政府軍に幕軍は負け大阪城へと向かう・・・
図上戦術に関する限り、幕軍が勝つべき戦であった。薩長は兵力も少数である。
しかし幕軍には戦意がなかった。幕府直属の洋式歩兵は戦うより逃げることに忙しく、藤堂藩など諸藩の寝返りもあった。
この辺は関ヶ原の戦いのようであるし、最後まで大阪城を出なかった秀頼。
大坂城に腰を据えたままの慶喜。同じ大阪城でもある。歴史は繰り返す。

戦いに負けた新撰組土方も「どうやらこれからは北辰一刀流も天然理心流もないようですな」と。
世の中が変わったと。

しかし、鳥羽伏見で敗走しても大坂城がある!
無傷の兵士数万、武器、そして大阪城は秀吉が保全に保全を重ねた大要塞である。
その他大阪湾には開陽丸を旗艦とする4隻の幕府海軍が制海権を確保しており、
総帥の徳川慶喜はあくまで抗戦するという意思を全軍に布告したのである。
何より慶喜が立てばという思いが幕軍にはあった。

しかし・・・・・・

その慶喜が深夜にこっそりと幹部数名とともに開陽丸に乗船して江戸へ逃避したのである。
最高指揮官が戦闘部隊を置き去りにして戦線を離脱したのである!

一所懸命戦った兵一同、ズコーーーーーーッ!!といったところだろう。ダメだこりゃ。

このことに関しては否定的な意見は多いですが、晩年息子にポツリと、
「あの時は、ああするしかなかった・・・あれが一番良かったんだ」と語った事があったそうです。
もしかすると慶喜公は大変聡明だったため、その時の情勢、外国勢力の事、スムーズな近代化、その他諸々を考えての事
だったのかもしれない・・・・

まぁ私は断然否定派ですがね笑
後は将軍が本気でやれば勝てたのに、ただの腰抜けじゃねーか!と。


そして大坂感想。
まず交通機関が所々わかりずらい、不便。
大坂空港と関西空港の区別つかないで爆死。
まったく知らない街だったから所々アミバになってしまう模様。

・・・「んんー?間違えたかなぁ??」

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おっさんだから夕方前についても、準備等で出撃は夜になる模様。笑
そして流星ガンダムは梅田で迷う模様。

どこいっても土地勘がないからやはりアミバ状態に。。。
「ん??間違えたかなぁ??」

 

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梅田は渋谷に似てるなぁ。反応も同じような感じ。
プライベートナンパはほぼできなく、講習中の話になるけど、反応もそれなりよく講習生も連れ出ししてたくらいだから、
こりゃかなり環境が恵まれてるなと。ノリはいいから話せれば勝機はある。

後クラブが熱いのは女のノリがいいから、街では反応しない層もクラブでは反応するのだろう。
だからクラブ関連、GTなどが熱いという事なのであろう。

反応事態、ガンしかは渋谷と同じような感じ。しかしノリは全然いい。

見た目でしか勝負できない、話がくそつまらない人間にとっては難しい場所かもしれないなぁ。。。

ちゃんと冷静に、そして公平に検証できる人がリサーチしないとダメだね、うん。
その日と時間によるとおもうけど、印象的だったのは
夜の12時頃難波行ってみたら、私服の女キャッチがたくさんいてうっかり一般人と間違えて声かけそうになるとこ。
少ししかいなかったけど、現地人が街が死んでる状態との事で全然よくなかったなぁ・・・
なんか懐かしい光景を目にしたのは、その時のリバーサイドは、

完全に酷メリーゴーランドの流れに・・・

じゃがいも、カボチャ、玉ねぎ、とんこつ。。。なんか懐かしい哀愁を感じたなぁ。

流小「大坂ではGTという時間帯が有名みたいだけど、それはどうなの??」

爺『全日程その時間は完全に熟睡しとったわい!笑』

流小「相変わらず一回寝たら起きれないね笑」

爺『目覚ましは10回分セットしといたけど、全部ヌルーしたわい、ヌルー』

爺『それより流よ、梅田駅では、

でぶ隊長に気をつけろ!

 

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でぶのくせに動きが早く、すぐに距離を詰めて注意してくるぞ!!』


まぁ個人的には好きな街だなぁ。
連絡も繋がるから準即もできそうだし、良い街だなぁ。
やはり情がある土地柄なのかも知れないなぁ。
トイレとかでもおっさんにうっかり声かけそうになるし、それが許されそうな雰囲気がある。
そういうノリは好きだなぁ笑
関東弁グダがあるという話だったけど、私はいっさいなかった、
というより標準語にも関わらず大坂じゃない人から大坂っぽいねといわれる始末笑
よそ者とは思われなかったから、それが良かったのかもね。

また行きます笑

貝と堺は接待してくれてありがとう。そのおかげで大坂旅行はいい思い出になりました。



そして戦の舞台は東西を結ぶ要所、東海地方へと向かうのか・・・・・?

御三家の筆頭といえば尾張である!江戸幕府が崩壊するような事態になれば、京に集結した西国大名が江戸を攻める。
この時中山道、東海道の要所を抑えている重要な場所である、重要拠点が尾張となる。
その重要拠点に御三家筆頭の尾張藩を置いたのである。そして京を背後から脅かすのが紀州藩である。
この当時の言葉では、尾張藩は”大手”であり、紀州藩は”搦め手
“である。
しかし、官軍の倒幕軍が東進したとき、なぜ東海道で戦いがなかったのか?
関ヶ原の戦いの後、德川家康は西の藩が東を攻めてきたならば、防波堤になるために、東海道と北陸道に譜代大名を配置した。
彦根城、桑名城、尾張城、豊橋城、駿府城、小田原城などと最強の布陣だった。
北陸路にも福井城など、松平という強力な譜代がいる。
西の軍がそれらを突破したならば、紀州・徳川が後方から撃つ。その布陣は、家康以来完ぺきだったはずだ。
西郷が率いる官軍がなぜ簡単に大井川を渡り、箱根の山を越えたのか。
もし、徳川の譜代大名たちが本気で戦っていれば、官軍は敗れたかもしれない。軍事力から判断すれば、その可能性が高い。
しかし、徳川の譜代大名たちはどの藩も戦わなかった。
徳川御三家の一つである、尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)となると、勤王側について徳川の倒幕に寄与しているのだ。
慶勝は第1次長州征伐の時に、徳川軍の総大将だったはず。それなのに、戊辰戦争では討幕を決意した。

慶勝は若くして西欧の最新テクノロジーである写真に傾倒した。
下屋敷が公開されているが、多数の西洋文物、建物構造配置が見られる。
公文書も残し、当時の世情の写真も多数残した。37歳の自分の写真を残した。
薬品の調合、焼酎からアルコール抽出、現像、焼付けも全部自分でこなした。
西洋の科学水準の高さに驚き、軍備の面でも対抗できないことをよく認識していた。
慶勝は日本人どうし戦うのはよくないと思っていた。
西欧に対し強い日本を作らねばならぬとの信念を持っていた。

1866年慶応2年12月、強力な公武合体論者の考明天皇死亡。長州と薩摩同盟。
孝明天皇死亡とともに幕府は滅亡に向かう。翌年慶喜、大政奉還。慶喜は徳川は日本最大の藩として生き残りを考えていた。
しかし慶喜は新政府のメンバーから漏れ、慶喜の領土没収が明らかになり、幕府の過激派が慶応4年京都に進撃したが、
新兵器を装備した長州側に鳥羽伏見の戦いで破れた。長州側5千、幕府側1万5千。
岩倉具視は慶勝に「朝廷か幕府かどちらにつくのか。弟たちの縁で朝廷と決戦をするのか」
と糺してきた。
慶勝は戦火を起してはならぬとの信念であった。尾張藩保守派の追放を行い、東海道、中仙道を守る徳川親藩、譜代すべてに勤皇の血判を押させた。
また新政府側につくよう説得をし750通の誓約書をとった。当然幕府側に立つと思われた岡崎藩もこれに入っている。
説得は徹底的で400の旗本領や寺社にもおよんだ。朝廷、日本を守る方に舵を切った。
これによりわずかな官軍は血を流すことなく江戸に向かうことができたのだ。
明治元年(1968年)1月の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶勝は新政府の代表となり、幕府から二条城、大坂城を受け取った。
最後は北海道開拓を指導し、その後一市民として生涯を終えたそうな。


次回、名古屋講習8月2,3日、お楽しみに!

流小「え?東海の話はこれで終わり??」

爺『終わりじゃ笑』



そいて舞台は東北、会津、仙台藩へと移る・・・

旧幕府軍の中には、まだ、納得できない人が大勢いる。彼らはみな会津に向かった・・・・
鳥羽・伏見の戦いで大敗を喫した旧幕府軍は、大坂へと逃げ戻り、再起を謀ろうとしたが、肝心の元将軍・徳川慶喜が戦闘すべきでないことを悟って、
密かに大坂城を抜け出て、江戸へと逃避した。この時、容保は実弟の松平定敬とともに徹底抗戦を主張したが、慶喜に受け入れられず、慶喜の命令にて大坂城を後にしている。
江戸では今後の身の降り方を議論したが、結局は徹底抗戦は排除され、勝海舟が主張する恭順に決した。
慶喜は上野の寛永寺へと引きこもり、江戸の無血開城をひたすら願う日々を送る。

一方、容保は朝敵の汚名をかぶった以上、官軍にわが会津藩は蹂躙される屈辱を味わうことは必死と判断し、
江戸や新潟で大量の武器弾薬を運び出したり、購入したりして戦争準備に取り掛かった。
徹底抗戦の構えを見せる会津藩であったが、すでに天皇・朝廷に敵対するべきではないとする考えが一般論を占めて、
東北諸藩はみな官軍に協力する姿勢を見せていた。しかし、徹底抗戦を貫く会津藩に同情的である東北諸藩は、会合を開いて議論し、
会津藩を助命してくれるよう嘆願する書状を新政府側に提示した。
しかし、戦功にはやる官軍諸将はこれを聞き入れず。厳しい条件を下して、会津藩の恭順を受け付けない。
業を煮やした仙台藩がついに爆発し、官軍参謀の世良修蔵を斬殺して、徹底抗戦に踏み切った。
会津藩を助けるべく、仙台藩は米沢藩とともに同盟の盟主を買って出て、奥羽越列藩同盟が成立している。
列藩同盟側は、官軍に対して、天皇・朝廷には協力するが、その権威を傘に着る薩長の言うことは聞かないという主張を成している。

東北諸藩31藩の列藩同盟に会庄同盟を加えると、合計約260万石にも及ぶ東北諸藩が新政府に対して反旗を翻したのだ!

しかし、初戦の要所白川の戦いでは4倍の兵力がありながら近代戦術、近代重火器によりなすすべもなく敗退。
秋田藩の同盟脱退によって、弘前藩・新庄藩もこれに続いて同盟を脱退した。守山、三春藩も劣勢を悟り新政府軍に降伏した。
これら同盟の脱退や降伏などが相次いだことで、奥羽越同盟は大いに動揺した。

二本松藩では、新政府軍による攻撃が開始され、三方向から二本松城は攻撃を受けた。
窮地に陥った二本松藩留守部隊は、弱冠21歳の砲術師範・木村銃太郎を隊長とする二本松少年隊による必死の防戦が行われた。
木村は城の西南に位置する大壇口に防壁を築き、百匁玉大砲を設置して、激しく新政府軍と抗戦した。
新政府側は薩摩藩軍を主力に突撃したが、二本松藩防衛隊にサンザン苦しめられた。
だがその乱戦も木村が銃弾に倒れると勝敗は決した。
二本松藩防衛隊は撤退を開始し、新政府軍は二本松城に迫った。城を打って出た少年部隊は、ゲリラ戦を展開したが、抵抗むなしくことごとく玉砕した。
城内では、もはや敗戦と悟ると城代家老・丹羽和左衛門、藩家老・丹羽一学らが本丸に火を放ち、家臣ともども自刃して果てた。
こうして、二本松城をめぐる攻防戦はたった一日で終結したが、凄まじい戦闘と総員玉砕という甚だ痛ましい結果を招いた。

長岡藩軍総大将の河井も自らガトリング砲を率いて奮戦し、新政府軍を何度も押し返し長岡城を再奪取するものの、
後の戦いで重傷を負い、戦線を離脱。

長岡城も再び新政府軍の猛攻にて陥落し、列藩同盟軍は戦況不利と判断して、会津へと落ち延びていった。
新潟では新潟港奉行を務める米沢藩家老・色部長門が奮戦し、新政府軍に猛攻をしかけ守護するも、善戦やむなく敵弾を浴び無念の戦死・・・・。
会津・米沢・仙台・庄内の新潟守備軍が突破されてしまうと、
新潟、新発田、萩島、村松、黒川ら越後諸藩は次々に新政府軍に占領されてしまう。

そして盟主米沢藩も降伏し、同じ同盟の盟主となっていた仙台藩にも降伏を勧め、これに同調して伊達家存続を条件に新政府に降伏した。
この時、仙台藩に滞在していた旧幕府軍の榎本武揚と土方歳三は反対して、最後まで徹底抗戦を主張したが、受け入れられず、
仙台が降伏すると旧幕府軍は蝦夷地を目指して海路、敗走した。
 
こうして会津では壮絶な戦いを繰り広げるも会津もついに降伏。
一部の地域でみせた激戦が東北のなかにも骨のあるやつもいるぞ!と、ある意味で戦闘経験を経ることで、
平和ボケした人材が啓発することとなり、新時代の活発な覇気をよみがえらせてくれたことは、日本にとって大きな有益となったのである。

仙台といえば星恂太郎率いる額兵隊!イギリス式調練を受け、元込め式のスナイドル銃を装備した最新鋭の部隊。
出陣の時は仙台藩が降伏を決め、その後は榎本艦隊とともに蝦夷へ渡る。
蝦夷では旧幕府軍の主力として戦う。



そして仙台。
8月11日、もしくは12日にふらっと立ち寄って仙台講習しようかと思っております。

詳細はまた。

流小「まさか・・・・」

爺『終わりじゃ・・・笑』



そしていよいよ戦いは蝦夷地へと移る・・・
戊辰戦争最後の戦いへと。

戊辰戦争は、単に明治新政府が江戸幕府を滅ぼしたというだけで無く、江戸時代の幕府と大名による連邦国家という形態から明治以降現在まで続く中央集権国家となるという、
日本という国の枠組みが大きく変化する、我が国の歴史でも非常に重要な戦いであった。
この戊辰戦争最後の戦いであったのが箱館戦争、五稜郭の戦いである。
旧幕府の海軍戦力は、新政府軍が江戸を占領した後、本来であればすべてが新政府に引き渡される事になっていた。
だが、新政府の徳川家に対する処置に不満を覚えた幕臣であり海軍副総裁でもあった榎本武揚ら抗戦派は一部の軍艦で江戸を脱走、北へと逃れた。
旧幕臣の将来を憂いた旧幕府軍海軍副総裁の榎本武揚は蝦夷地を幕臣らの新天地とし、北の防備と開拓にあたることを画策する。
新政府軍による軍艦引き渡し要求に抵抗するなかで榎本武揚率いる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美嘉保丸の運送船4隻)
が品川沖を脱出し、仙台を目指した。そこには、松平太郎、人見勝太郎、伊庭八郎の他、旧幕府軍軍事顧問団のジュール・ブリュネらも乗船していた。
艦隊は悪天候に見舞われて咸臨丸など2隻を失い、ようやく仙台に到着する。
仙台で、東北を転戦していた大鳥圭介、土方歳三の他、旧幕臣を乗せ、更に北へ進路をとり、新天地の蝦夷地へ向かった。

蝦夷地を平定した榎本武揚らは、俗に言う「蝦夷共和国」を樹立して新政府軍へ最後の抵抗を行うこととなった。
だが、蝦夷地平定の過程で軍艦2隻を座礁によって失うなど、海軍力が弱体化していた旧幕府軍は海の守りを強化するために新政府軍の軍艦・甲鉄艦を奪取を計画するが失敗し、新政府軍の上陸を許すこととなる。
その後、箱館を中心とする旧幕府軍に対し、新政府軍はまず江差近辺に上陸。海からの砲撃によって江差奉行であった松岡四郎次郎らは松前方面に後退した。
これによって江差を確保した新政府軍は、松前・木古内・二股の3つのルートから箱館へ向けて進軍を開始した。
松前口の新政府軍は、松前城奪還へ燃える松前藩兵を先方に進軍を開始。艦砲射撃の援護を受けた陸兵は松前城を奪取した。
木古内口では、陸軍奉行であった大鳥圭介が指揮する旧幕府軍が奮戦したが、数千人規模の部隊で迫る新政府軍に対し、最終的には総崩れとなって箱館へ敗走した。
二股口では土方歳三が守る二股口台場が不敗の陣として新政府軍の侵攻を阻んだ。
300名で守る旧幕府軍に対し、新政府軍は700名の勢力で攻め立てるが16時間に及ぶ激戦でも台場を抜くことが出来ず、弾薬が欠乏した新政府軍は一度撤退する。
その後、兵力を増強した新政府軍は、引き続き攻め続けるものの旧幕府軍の抵抗は激しく、遂に戦闘によって二股口台場が落ちる事は無かった。
単発銃装備の小部隊が連発銃装備の大部隊の進撃を阻止した例は戦史上珍しく、こういった事からも、土方の突出した指揮能力の高さが伝わってきます。
新選組結成時の土方はあくまでも一介の剣客に過ぎず、軍事に関する専門的な教育も受けてはいませんでしたが、
戊辰戦争が始まり旧幕府軍の軍勢を率いる立場になると、
土方は北関東の要衝であった宇都宮城を落城させ、更に、江戸軍学の粋を尽くして最強の城として完成した松前城をも落城させ、そして二股口では二度も新政府軍を破るなど、
近代戦司令官としての才能も急速に開花させていたのです。

だが、各地の旧幕府軍拠点が次々と陥落する状況で、二股口と箱館を結ぶルートが塞がれ、退路を断たれる恐れが出たために、榎本武揚から撤退命令が出され、土方軍は箱館に撤退することとなった。
陸から新政府軍が箱館に迫る中、海上でも旧幕府軍は厳しい状況に置かれていた。
既に豊富とは言えない旧幕府軍の海軍勢力であったが、座礁や故障も発生、特に海戦によって主力艦である回天が運行不可能となり、新政府軍が制海権を握ることとなる。
五稜郭から箱館にかけての範囲に勢力を縮小し、制海権も失った旧幕府軍に対して、新政府軍は遂に総攻撃を開始した。
海上からは艦隊が陸軍援護の艦砲射撃を行い、陸軍は五稜郭を目標とする正面攻撃のほか、箱館山背面からの奇襲攻撃も用意し、一気に箱館に迫った。
劣勢であった旧幕府軍は、箱館湾での海戦で敵艦を撃沈する快挙を機に反撃に転じるものの、物量の差は如何ともしがたく、やがて新政府軍の攻撃に押し戻された。
そして遂には箱館市中は新政府軍によって制圧され、

『土方歳三も銃弾を受けて死亡』

旧幕府軍は組織だった抵抗を行う事が困難となり、各陣地の籠城戦へと移行する。
この時点で旧幕府軍の陣地は五稜郭、千代ヶ岡台場、弁天台場のみとなっていた。
その後、新政府軍は引き続き五稜郭などの幕府軍陣地に艦砲射撃を浴びせる一方、終戦調停を開始した。
残る陣地の中で五稜郭から最も離れており孤立していた弁天台場では、箱館奉行の永井尚志が再三の申し入れに降伏を決意した。
中島三郎助が指揮する千代ヶ岡台場は新政府軍からの降伏勧告、五稜郭からの退去勧告も拒絶。
未だ陥落していない千代ヶ岡陣屋を守る三郎助は、
徹底抗戦を訴えて千代ヶ岡陣屋にて討死する」事を表明する。
新政府軍からの攻撃に、砲兵隊50名とともに立ち向かうも、予想通りの多勢に無勢・・・
「もはや、これまで!」と悟って、近づいて来た敵もろとも自爆しようとしますが、雨のために爆弾に点火できず、
やむなく、22歳の長男、19歳の次男とともに、刀を振り上げて敵に突入・・・
壮絶な最期を遂げたのだった。
ここに至り弁天台場と千代ヶ岡台場を失った五稜郭は遂に降伏を決意。

五稜郭は開城し箱館戦争ひいては戊辰戦争がここに終結することとなった。


無作法でめちゃくちゃな若者がやった明治維新とそれを許した大人たち by司馬遼太郎

日本の近現代史においては2回だけ、若者が社会の中心として活躍できる時代があった。
明治前半期は先輩がいなかったため、太平洋戦争後は先輩がいなくなったため、若者にチャンスが回ってきたのである。
そしてその時がまた日本が一番発展した時代でもあった。

幕末動乱期・・・・やはり面白い。



GWではまったく死んだ街だった札幌も7月は暖かいせいかだいぶ良くなっていた。
街があったまっていたのである。昼間の街は熱い。
前回よりスカウトが少なくなったのは儲からないからやめてしまったのか?
ただ夜はホストが異様に増殖していて、狭い街中を隊列をくんで常時うろうろしている。
街のいたるところに常時30~50人くらいはいるのではないだろうか?
ここまでホストが街をうろうろしている街を見たことがない。
全国でも例をみない異様さである。それくらいホストがあまっているといえるのではないだろうか?

ちなみに夜は女ソロはあまり歩いていない・・・
狙えるしたら夜12時半~1時半のわずかな間だけ・・・・
そこで見つからないとあとは運ゲーになってしまう。
ぞろぞろと隊列を組んで回遊魚のようなホスト達との勝負でもある。
厳しいよー笑


それでは6大都市を回った感想と、ナンパに適しているのはどこかの話。
東京を抜いて比較する。

名古屋≧大坂>>>福岡=仙台=札幌

これくらいの差があるね。
ローカル三都市は50歩100歩

とにかく名古屋、大坂は大都市だし、マンパワーがあるし、ナンパ地政学的にも恵まれている。
もうここの2都市に住んでる人はナンパ環境がすごく良いんだから言い訳しちゃだめよ。
どこどこは難しいとか、住んでる所の逃げ口上はかっこ悪いよほんと。

それ以外の都市は人口密度も薄いし、街の規模も狭いしストのやる場所も限られているから工夫しないといけない。

全部の都市でナンパ時間は様々でほとんど出れなかったところもあるけれど、
講習をすることによって普通の人が見えないところも見える。
全部の街で当然即をしてるけど、特にどこの場所が厳しいとかはない。

ほんとにきつかったのは、
GW夜のすすきのと福岡中州の平日夜一般人がだれも歩いてなかった時だけ。
対象がいないとストどころの騒ぎではなくなる。

後はライバルの数、スカウト、ホスト等のキャッチの数、警備員などの監視の厳しさ。
ナンパ場所の豊富さ、対象の数、連れ出し先、その他諸々の事を考えるとこうなる。
連れ出し先はどの都市も使える施設は十分ある。
もしこれが間違っているなら、それは偏見による見方しかできていないという事になる。

各都市のクラブ事情は分からない。
クラブは女がやられにきてる場所だけれど。
当然、着飾ったストリートにいない派手な良い女もいるだろう。
クラブはイケス。
餌を食べにきている女はいっぱいいるが、釣り師も多い。
で、この釣りの勝負は見た目の雰囲気とノリによる部分が強い。
細かいパーツや繊細な部分での勝負はできない。
見た目スペックの高さと大味なトークで済む。
豪華な竿とかエサの釣り師が錦鯉やマグロを釣るのに有利にできている。
私がクラブにいってもまず外見的な雰囲気で完全に負ける。
完全に雰囲気ブサメンになるために、見た目で雰囲気で勝負されると他の釣り師には勝てない。
まさに資本主義的な世界なのだ。
もちろんVIPをとればだれでもやれるよ。という話はよく聞くが、そんな資金もない。

私が得意とする場所は、見た目の雰囲気を求めれらず、武器や防具がそろってなくても、
無駄な資金を使わず、裸一貫でも戦える世界なのだ。

※当然上記のものがそろっているとナンパの結果は抜群に出やすくなりますが。

等の理由のためクラブにはいかないが、身長があってスタイルが良く、
ノリと勢いのトークができる方はクラブに行くことを強くお勧めする。


とはいってもどんな分野でもナンパでは経験豊富なため、
かなり的確なアドバイスはできるので努力の仕方や方向性はお任せください。

もし時間が空いている時の場合のみ、
ツアー料金+講習費用+なんらかのプラスをお支払できるなら、

全国各地に行きます!!



爺『まぁ、こんなもんかのぅ』

流小「無駄に長かったね。そういえば今日はお正月だからお年玉ちょうだい!」

爺『おぉそうかそうか、、、ごそごそ。無駄遣いするなよ。理想は1即1000円までじゃぞ。』

流小「わかったよおじいちゃん。たしか・・・
連れ出しは解放されたイスで缶ジュースんで、即確定の時だけマンボーでしょ??」

爺『・・・そーいえば。。。そんなやつも昔いたなぁ・・・・笑』


こうして流星少年はボケたおじいちゃんから与太話を聞く変わりに、
毎日お正月という事にしておこずかいをせびるのであった・・・・




そしてダイジェスト!!

20即分以上たまってるけど一部のみ。

今月七月は20時間以下の稼働で20即近くいけそうだなぁ・・・


某日。
スペ高OLを準即。

某北の大地。
昼職のダーハ値かなり高めの童顔っ子を即。

これまた昼職のパイパイ値が高いブレンダ系を美若を即。

そしてキャバ系のスぺ高美若を即。

清楚系スト高のフリーター美若を即。

ちょこちょこっと出る時間があったのと、最後は若干多く時間あったので2即できました。

某日
某場所にて花柄ワンピのふわふわ系、顔まぁまぁ良い感じの子を弾丸即。

某たこやきの地

初スト1時間でギャル系OLを即。

講習生から接待を受けた後、ノータイムで童顔のチチでかい子連れ出したけど、疲れて雑になりグダ笑

某日
たまにくるミラクル。くっそかわいい美若即。

某日
某芸能人に似てるキャバ系スト高即。

某日
2我慢汁を喰らい、流星怒りのストナン!
ひっさびさの即れるまで帰れまてん!!
も、30分くらいで昼と夜水系を掛け持ちしてるいまどき風の美若を居酒屋連れ出し。
そのまま個室いって即。帰れて良かった♪

某日
ムチムチ足の足値が良い感じの美若専学を即。

ギャル系風の民を即。



こんなもんかな!


次回は講習内容の記事書きますが、講習がやばいことになっております汗
ナンパ講師は圧倒的な指導力の格差に心臓が止まるかも知れないので見ないように笑
ギネスブックのるんじゃないかなぁ・・・

今時期は完全にナンパの絶好の時期なので、
絶対にこのチャンスを逃さないように!!!

次にこの絶好の時期が来るのは来年ですよ(ニッコリ)


とてもじゃないけど多すぎて全部載せれまてん!
一つ一つの物語を盛りたいけど盛れまてん!!


これだけ数があれば一つ一つを重厚なストーリーにし、いくらでも権威付けや自分盛りができるのだろうけど、
大量にブログが書ける文才ありまてん!!

どなたか文才のあるかた、
即のシーンだけゴーストライターになってくれませんか??笑

募集要項は、
・文才のある方で俺すげーを天才的にいやらしくなくできる方w
・一つ一つをドラマティックに書ける方。
・AFC的な切ない描写で感動を呼べる方。

いねーかなぁ・・・・
僕は耳聞こえないー><



まぁまぁ長かったなぁ笑

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