まず先に、
札幌講習受けたい方は7日、8日の夜八時からお願いします。
値段は2時間19800円です。
九州といえば・・・・
明太子?博多ラーメン?もつ鍋?まぁ毎日食べたが、、、
九州といえば、まずは・・・
九州三国志だろう!!
・大友宗麟
九州の北東部を支配した戦国大名です。 大友家は戦国時代初期の頃から大きな勢力を持っていました。北九州での支配力を拡大しようとしますが、中国地方から進攻してくる毛利家や、北九州の諸勢力の反乱に悩まされ続ける事となります。
後年、ヨーロッパから伝わったキリスト教を信仰し、キリスト教王国の建国を目指して南進を開始します。
・島津義久
九州の南部を支配した戦国大名です。 九州の名家の1つですが、戦国時代の初期には衰退していました。 薩摩で島津家の地盤を築いた祖父「島津日新斎」と、父「島津貴久」の跡を継ぎ、弟の 島津義弘・島津家久 と共に対立する九州南部の大名家との合戦に打ち勝ち、島津家を九州一の勢力へと押し上げていきます。 そして九州北部を支配する 大友家 と 龍造寺家 との対決に向かっていきます。
・龍造寺隆信
九州の北西部を支配した戦国大名です。 戦国時代の初期には小勢力の1つに過ぎませんでした。
彼が子供の頃に龍造寺家は裏切りの疑いで主君(少弐家)に攻められ、滅亡寸前の状態に陥ります。
しかし、出家していてまだ子供だった龍造寺隆信はその難を逃れ、後に龍造寺家を継ぎ、お家再興に尽力します。相次ぐ戦いを制し、ついに元の主君も討ち倒した龍造寺隆信は、大友家との決戦にも勝利し、勢力を拡大していきます。
この中でも九州といえばやはり島津!!
そして島津といえば、
鬼島津!
島津に暗君なし!
釣り野伏せと、捨て奸(すてがまり)だろう!
釣り野伏せとは、
野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法である。 まず中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退する。これが「釣り」であり、敵が追撃するために前進すると、左右両側から伏兵に襲わせる。これが「野伏せ」であり、このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転し逆襲に転じることで三面包囲が完成する。
捨て奸とは、
本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、死ぬまで追ってくる敵軍を足止めさせる。それが全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。
あの関が原の戦いでの島津の退き口が有名だろう。
慶長5年(1600年)9月15日(現在の暦で10月21日)に起きた関ヶ原の戦いにおいて、
石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍に敗れ、西軍は次々に各部隊が敗走。
その中で、最後まで陣から動かなかった島津義弘率いる島津軍(この時点で約300~1000)が
敵中(この時点で約80,000)に孤立してしまう。
普通ならこの時点…というか、孤立する前に降伏するか寝返るか逃げるかするものだが、島津義弘の下した決断は尋常ではなかった。以下その時にあったというやりとり。
島津義弘「敵は何処方が猛勢か?」(敵の勢いが最も強いのは?)
家臣「東寄の敵、以ての外猛勢」(東側の敵勢の勢いが尋常でなく強いです)
島津義弘「その猛勢の中にあいかけよ(突っ込め)」
※ただしこのやり取りには異論もあり、討死(自害?)を口走った義弘を、豊久が必死に止めたという話もある。
戦闘がほとんど終結していたにも拘らず、島津軍(300人)が東軍(80000人)に向かって一斉に突撃を開始したのである。
普通なら鎧袖一触とばかりにズタボロにされるはずであるが、猛将島津義弘率いる
戦闘民族薩摩隼人達がおかしいのか、東軍にやる気が無かったのか、
徳川軍本隊の目前まで一気に突破。
更にそのまま脇をすり抜けて伊勢路方向へ一直線に駆け抜けたのである。
当然東軍(徳川軍)は追撃したが、
この時『捨て奸(すてがまり)』や『座禅陣』と呼称される決死の足止め役が、
追撃を食い止めるために文字通り捨身で東軍に襲いかかった。
火縄銃と槍刀で武装した兵士たちが、ある程度の集団として本隊から離脱。
座禅を組み座り込んで火縄銃を構え、敵将を狙撃。
撃った直後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み死ぬまで戦うという時間稼ぎ戦法。
確実に追手は足止めを食らうが、捨て奸の兵士もほぼ確実に死ぬというトカゲの尻尾切も真っ青な壮絶極まりない戦法である。
更に言うとにこの役目、命ぜられた人数よりも自分からその役を買って出た人数の方が多かったとも言う。
北斗の拳でいうところの、「ここは俺に任せて先に行け!」もしくは「ヒャッハー道連れだー!」である。
更に言うと、この時点で東軍の勝ちは決定していた。つまり東軍は「折角勝ったのに死にたくない!」に対し島津勢は「殿お1人でも城に戻れば我らの勝利。兵子ども死ぬるは今ぞ!」なのである。この辺の士気の差は大きいのではなかろうか。
その勢いは尋常ではなく、
井伊直政負傷(後にこの傷が元で死亡)
松平忠吉(家康四男)負傷
三国黒(本多忠勝の馬)戦死(本体は落馬するも無傷)
と、かなりの被害を受けてしまう。もちろん島津軍も無事であるはずもなく、島津豊久や家老の長寿院盛淳などが次々に討死したものの、大将である島津義弘は脱出に成功。
大阪経由(人質を奪取)で堺の港から船で薩摩まで辿りついた。
その時、義弘の周りにいたのは僅かに80名ばかりだったと伝えられる。…
この凄まじいまでの撤退戦が、後に『島津の退き口』と呼ばれる事となった。
関が原では結果何もしていないがこの島津義弘の猛将っぷりは評価されてもいいのでは・・・
なお、この後島津は改易になるどころか、西軍の関ヶ原参戦組では唯一かつ異例の本領安堵となる。
(寝返り組は除く)。そりゃ300人でこれなのに、本国に主力(数千~万)が居るとか冗談じゃないレベルではある。
ちなみにこの交渉、調べてみると結構面白い。
徳川方の交渉役は島津によって致命的な致命傷を負わされた井伊直政であったり、
島津竜伯(義久)も島津維新(義弘)も、書状でこれっぽっちも非を認めていないなど、
笑いどころ満載である。
謝りたいけど金がないから上洛できないよ☆てへぺろ(・ω<)
それほど徳川にとって島津は恐れる存在だったのかも。
島津義弘は当時65歳だったが、それまでの50年の戦歴で戦闘では豊臣秀吉以外に負けていない。島津は九州をほぼ統一し、朝鮮の役では5000人の兵で20万人(島津家資料による)の明・朝鮮の連合軍を壊滅させ、日本軍の撤退を可能にした。
今でも韓国で英雄視される提督李舜臣を露梁海戦(1598年)で戦死させた。
義弘の構想の下で当時の島津兵は精強だった。多くが徒歩で、誰もが3丁以上の火縄銃を抱え、短槍を持つ一方、甲冑は短い鎧の胴巻き程度で軽く機動性に優れ、そして勇敢だった。島津軍は火力を背景に戦場の主導権を握り、状況に応じて兵を銃兵にも、槍兵にも変化させた。おそらく当時の欧州世界で最強のスペイン軍とも、同兵力なら互角の戦いができたであろう。
関ヶ原の島津義弘から理想的な指揮官の姿が見られる。
「部下との強い信頼関係」「危機における冷静さと合理性」「覚悟と勇気」「あきらめず、持続する意思」
「平時における準備と実戦での錬磨」。
そして絶体絶命の窮地でも、「死中に活」を求めるヒントがここにある。
危機ではじたばたと小細工をしてはいけない。運命を受け止め、あきらめず、チャンスを探し続ける。
その中で生き残りの道を探し、自分の力で切り開く。
例え滅びても、自分が捨て石になる覚悟を受け入れ、次につなげることを考える。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、
それはあきらめに基づく消極的なものではなく、自らが主体的に状況を支配する積極的なものにも転換できるのだ。
これはナンパでも必要な事です。
そしてこの薩摩藩が明治維新の中心として長州藩とともに倒幕へと向かう・・・・
チェストーーーーーッ!!
と、まぁこれくらいにしておこう笑
そして、ある一人の北斗が、某国へ行くために海を渡った・・・・
そう、その国の名は・・・・
修羅の国!!
生きて帰ってこれるのか!?
そしてそこでまつのは、公家シンジ!
ウェスト押しの修羅!!!
平日は夜は閑散としてるね・・・・・
とんでもないところにつれてこられたなぁ・・・・・
チラッ!| 壁 |д・)
この街のエネルギーのなさは札幌を彷彿させるなぁ・・・・
微妙な街だなぁ・・・・・
で、連れ出しw
で、グダ笑
そして中州に行くが、黒服の修羅しかいない・・・・
一般人と黒服キャッチの割合が5対1くらいか?
平日のせいか閑散としてる。
強面のおっさん達もウロウロしてる。
しかも、
一般人の女の子まったく歩いてない!!
で、連れ出し未遂w
某ビルディング中で連れ出し交渉しながらオパーイ揉んでたけど、連れ出しはグダるなぁ・・・・
で人が全然いないのでワールドカップみるために帰還。
そして、
講習日、講習まで3時間くらいあったので街へ・・・・
さすがに時間的に厳しいかな・・・・
連れ出しw
店を新規開拓しながらの即
そして講習へ。
熱い修羅達との出会い。
講習中は初即もうまれ良かった。
その後以前東京に講習を受けに来た講習生とご飯に行きご馳走になる。
この件だけでも九州に着てよかったといえるだろう。
本当にありがとう!!
そして雨のため帰還。
そのまま朝早起きして中州いくどーんε=ε=ε= ヾ(*~▽~)ノ
で、チェックアウトの時間wwww
寝坊したどん!!笑
げぇっ!!!
ホテル滞在時間の方が長い笑
そして講習までまたまた2時間くらいあったのでスト!
さすがに時間的に無理ゲーだろう・・・・・・
連れ出しw
即
そして講習へ。
ひよっこ修羅達多数!
たった二日三日の滞在でどの講習生よりも連れ出し先に詳しくなってしまった笑
たくさんの講習生からパワーがもらえてよかったと喜んでもらえた。
その後は公家シンジ講習生となぜか合同飲み会!
あったことない公家講習生から昨日夜歩いてましたよね?と。
九州にいない異様な人が歩いていたのでと流星バレしてしまった笑
講習生達がなんらかのプラスになったかはわからないが楽しい飲み会だったんじゃないかな?笑
講習生にたかろうとするちゃっかりした修羅もいたなぁ笑
そして関東への帰国を阻止しようとする修羅!!
気づいたら、帰国ギリギリの時間に・・・・
飛行機の時間がおくれなければやばかったな笑
そして福岡考察!!
土日になると人が増える。平日は閑散としてる
街を歩いてる女の子は歩いている女の子の数の比率で考えると今のところ全国一かわいい。
たしかにおお!っという美人にも会えた。
出張族が中洲とすすきのの子はかわいいというのはあながち嘘ではないのだろう。
街の規模のわりにスカウト多い。
これはマイナスポイント。
スカウトが多いと女の子の反応も悪くなるし女の子がすさむ。
害悪。
夜はおいしくない。
深夜バスがあるから帰っちゃう。
あまり遊び歩いている女の子が少ない。
深夜~早朝の中洲は行ってみたかったが今回は検証できず。無念!!
けっこう最後の一線でグダる笑
連れ出しも、連れ出したら確定だろう、ってとこで連れ出しをグダる。
わかったいるのかもしれないね。明太グダw
そんなに硬い感じはしなかったが、ただ単に会ったばかりはいやなのかも。
準即にしたらいけるんじゃないかな?
連絡はつながりやすいので即を狙いながらバンゲを重ねて準即にもっていくのが吉。
後は、これも田舎の特徴だが女の子が暇でウロウロしてない。
なんらかの待ち合わせとか予定があって街にきてる。
その予定を崩して遊ぶのはなかなか非効率なので、そういう部分でも反応はいいからバンゲして後日にすればいいんじゃないかな?
東京にいる九州の子はチャライ(たぶん)から根はゆるいんじゃないかぁと。
街を歩いていると男と女のスペックに差があるから、女もわがままだよね。
九州の男が優しいのか?女のスペックが男より高いから図にのっているのか?
芯が強いってゆうか、ただわがままなだけ笑
島国はわがままな女が多いのかもね。
ナンパポイントも限られているし、街の規模が狭いため、
ナンパ環境としては九州では一番かもしれないが、そんなに良くないと思います。
なにぶん今回の検証では不十分なので、もう一度行ってみたいところ。
もう一度行ってみたいと感じるという事はやはり魅力がある街である。
ご飯はうまかったしね!
そして某日・・・・
無理ゲーな状況w
10時間の過酷な苦行、もとい男の修行中。
ピコがうろるろして894死マジックにかかりバンゲ笑
ピコッとね!ピコッと♪
電波もねぇ!コンビニもねぇ!カラオケもねぇし、ラブホもねぇ!!
とんでもない状況で、
即日アポにもってく流星神w
ただし、すっぴんは・・・
・
・
・
一同バッドボーイ顔に・・・・笑
良い感じの既婚の向こうの相方も・・・・・
・
・
・
・
メンヘラでやっぱり一同バッドボーイに笑
大学生ぽい感じで楽しめた笑
セパレートさえできれば・・・・・
いまさらバッドボーイなんて着てるやつはいないだろうって??
しかし、一つだけ言わせてくれ・・・・
アマゾンの水着で一番安かったのはバッドボーイだったんだ!!!
センスは問わないでくれ笑
ゆきりんもびっくり!!笑
以上w
コメント