第2回大阪出稽古~激戦!石山合戦~

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大阪の夜~ 欲望の街~
(略)あぁ大阪ビビルナイ~


竹内力 『欲望の街』 ミナミの帝王ED

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行って来ました!大阪、そして大阪城。

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大阪城といえば秀吉というイメージですが、江戸時代から今の大阪城は大幅に作り変えて更に要塞化した徳川大阪城なんですね。
そして大阪城といえば、夏の陣、冬の陣とありますが、その前にまず語らなければならない事があるんですよね。。。

それが、信長と10年戦い続けた石山本願寺!
難攻不落の城の前の姿である!!
石山本願寺を語らずに大阪城の事は語れないのである。

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時は1570年ーーっ!(北斗の拳ナレーション風に)
時の一向宗(浄土真宗)の法主顕如が、『仏法の灯火を守るため、打倒信長!』の檄文を諸国の信徒に呼びかけ、世に言う石山合戦が幕を開けるのです。

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織田信長に反発した第15代室町幕府将軍・足利義昭の呼びかけで、浅井長政・朝倉義景・武田信玄らの武将によって形勢された信長包囲網。
それに加え顕如の働きで、全国に一向一揆の嵐を巻き起こした浄土真宗の門徒たちも加わっていました。
一時は、全員を敵に回して、ピンチの連続だった信長も、浅井・朝倉を倒し、義昭を追放し、信玄の死にも助けられと、一つ一つ潰していく中、天正二年(1574年)の9月には、顕如の呼びかけに連動して発起した長島一向一揆を終結させます。

伊勢長島一揆とは。
〖伊勢長島の一向一揆衆が伊藤重晴を攻撃して長島城を奪い、信長の弟信興を自殺に追いやり、伊勢の滝川一益を敗走させたのです。
これを挙兵し攻めましたが総指揮をとっていた柴田勝家を負傷が負傷しわずか数日で撤退を余儀なくされました。
この時、殿軍をつとめた勇将・氏家卜全も一揆衆に追われあえなく討死。
天正元年(1573年)に、浅井・朝倉両氏を倒した信長は、その年の9月に6万の大軍を率いて、伊勢の各城を落とした後、再び長島一向一揆を攻撃します。
しかし、この2度目の挙兵は逆に一揆集からの奇襲を受け林通政が討死、信長自身も「あわや」という場面に遭遇するという、信長最大のピンチを経験する戦いとなってしまうのです。
天正二年、3度目の挙兵は長期戦を意識をして、「伊勢湾の海上封鎖を徹底して行い、兵糧が尽きるのを待つ」という持久作戦を展開。
一方の長島一向一揆勢は、数万人の老若男女が、河川の中州を堤防で囲った『輪中』地帯の中の、長島・屋長島・中江、そして対岸の大鳥居・篠橋の5箇所に別れ、こちらも徹底した籠城作戦。
しかし、籠もっている人数が数万人の為、徹底した海上封鎖で、物資の輸送が困難ななため、兵糧はまたたく間に尽きてしまいます。
やがて体力の無い老人や子供たちから、次々と餓死していく状態になっていきます。
そこを狙って攻撃を仕掛けてくる信長。最初に大鳥居が陥落します。
続く篠橋が落ち、対岸は壊滅状態に。それでもなお、輪中に残る一揆勢は、耐え抜きましたが、天正二年(1574年)9月29日仲間の過半数が餓死するという状況に至りついに力尽きたのです。まずは、長島に籠っていた人々が包囲から二カ月余り、長島の一向一揆衆は餓死者が続出し降伏を申し出ます。これを信長は許したと見せかけ、一揆衆が多数の船に乗り退去するところを隠れていた鉄砲隊が狙撃し、さらに切り殺すなどします。この攻撃に対し700~800人の一揆衆は半裸の状態で刀のみをもち川に飛び込み死に物狂いで猛反撃してきます。このため信長の兄・信広や弟・秀成、叔父の織田(津田)信次を含む多くの一族や家臣が討ち死にします。
信長は一向一揆の怖さを痛感したのです。
ただ、信長の側にも彼等を殺さなければならない理由はあったようです。なぜなら一向宗門徒は、「宗教」 による信仰によって結束している者達。彼等が自らその信仰を捨てない限り、たとえ戦いに破れようと、国が滅びようと、彼等が屈服することは絶対にないからです。
石山本願寺の東海の拠点であるこの長島を、徹底的に根絶やしにするつもりだったのでしょう。
そして、最後まで残ったのが中江と屋長島。ここには、籠城を決め込んでいる外側に頑丈な柵を構築し、ネズミ一匹通さない状態を作り出した上で、四方から火をかける。これは中に残ってる人々全員を焼き殺したという事なのです。長島に誕生し、半ば独立国家のような様相を呈していた一向宗門徒の王国はここに消滅しました。〗


その他、近畿地方の北方 「越前」 の国に進攻し一向一揆の軍勢を圧倒すると、捕らえた門徒は全て惨殺するという苛烈さで、その犠牲となった門徒は7万人以上とも言われています。
この時期に殺された 一向宗門徒 は10万人を超えると言われており、日本史上における最大規模の虐殺であった事は間違いありません。
これらの所業や比叡山・延暦寺の焼き討ちなどにより、いつの頃からか 織田信長 は 「第六天魔王」 と呼ばれるようになります。


一方石山本願寺側は、紀伊半島の南部一帯を拠点とする一向宗と友好的な勢力 「雑賀衆」 に救援を要請。雑賀衆多数の鉄砲を持つ職人集団であり、傭兵集団でもある彼らからの武力援助を受けると、織田家と敵対している中国地方の大大名 「毛利家」 とも同盟し、毛利家の水軍 「村上水軍」 から海上輸送ルートで物資の補給を行います。

数千丁の鉄砲を持ち襲い掛かる雑賀衆。
毛利配下の村上水軍、小早川隆景配下の小早川水軍。
海賊時代に培ったそのゲリラ的航行術を駆使して補給する海の民。
そして本願寺側がやばくなると、『陰徳(いんとく)太平記』によれば、真っ赤な法衣をまとった顕如が皆の前に現れ、その姿を目にした者は、たとえ織田の兵であっても、その神々しさにひれ伏し、たちまちのうちに武器を捨てて念仏を唱えはじめ、その度に形勢が逆転する。
上町台地の地形の助けられ、海上輸送に助けられ、雑賀衆に助けられ、死を恐れぬ門徒が必死に抵抗する。これが石山合戦が10年以上も続いた訳なのです。

そして戦いは木津川口の戦い、海上へと移る。
本願寺の兵糧を満載した数百艘の船団が、その護衛をする村上水軍中心の約300艘とともに大坂湾に現れ、和泉(大阪府)の貝塚に到着したのは7月12日の事でした。ここで、紀州の雑賀(さいが・さいか)水軍と合流した船団は、一路、堺から木津川口へと向かいます。
対する信長勢は、大きな櫓を乗せた安宅船・約10艘を中心に武者船・300艘を左右に広く配置し、「これより河口へ入れてなるものか!」と、待ちうけます。
かくして、天正四年(1576年)7月13日第一次木津川口の戦いがの幕が切って落とされます。
まるで、通せんぼをするがのごとく、横一列の織田水軍に、縦の編制で挑む毛利配下の村上水軍は、水軍独自の艦隊編制の陣形をとり、ほら貝の合図が鳴ると、あらかじめ決められた役割分担による見事な連携プレー攻撃を開始します。
まずは、板などで高い壁を造り、その影にかくれるように射手をしのばせた盲船(めくらぶね)が、一斉に矢を放ちます。
次ぎに、2番手に控える焙烙(ほうろく)船が、敵船に焙烙を投げ込みますが、そこには、当然火の手があがり、船上は大混乱・・・突然の火災に慌てた兵士が次々に海へと飛び込みはじめたら、3番手の武者船が、敵船に舳先をぶつけながら真横につけ、次から次へと刀を持った兵士が敵船へと乗り込み、船上の敵兵に斬りかかります。
また、これらの攻撃に動じない強い船には、ノミを持った兵士が水中にもぐって敵船の下まで行って船底に穴を開ける鑿入り(のみいり)というゲリラ攻撃も同時進行させました。
この陸戦に勝るとも劣らない見事な陣形の連携プレーによって、『信長公記』にも「歴々数輩討死候(そうろう)、西国船勝利」とあるように、信長勢は大混乱となり、一方的な戦いとなってしまいました。本願寺に兵糧・弾薬を届けることに成功したのです。

その後上杉謙信の死、荒木村重の裏切りなどを経て、
天正六年(1578年)11月6日第二次木津川口海戦が勃発するのです。
木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に燃えない船を造るように命じ、嘉隆は船の外装に鉄板を貼った鉄甲船の建造を進めていた。
また、それとは別に滝川一益にも白仕立ての大船の建造を命じており、天正6年(1578年)6月26日、鉄甲船6隻と白舟1隻の計7隻を中心とした船団が熊野浦から大坂沖に向けて出航した。
本願寺はこれを迎え討つべく、淡輪(現大阪府岬町)でこの船団を小船で取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃した。しかし、嘉隆はこれをあしらうように応戦し、大砲も使って敵船の多くを撃沈した。
鉄甲船には、それぞれ3門の大砲=合計18門が・・・敵船を射程距離に収めるなり、大砲は一斉に火を吹き、小さな軍船は、戦う前から木っ端微塵に砕かれます。
何とか、大砲の攻撃をくぐり抜けて鉄甲船に近づいた船も、もはや、相手が鉄の壁では、焙烙(ほうろく・手投げ弾のような武器)も、矢も、役に立ちません。
「六艘の大船・・・敵船を間近く寄せつけ、大将軍の船と覚(おぼ)しきを、大鉄砲を以って打ち崩し候(そうら)えば、是(これ)に恐れて中々寄せ付かず」(信長公記)と、織田側の一歩的な勝利で、お昼頃には、船団は壊滅状態となったという事です。
これに恐れをなした本願寺は、船団に近寄ることすら躊躇うようになり、船団は7月17日に難なく堺に着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖した。
11月6日、毛利水軍は600余艘を繰り出して再び木津川河口に現れた。信長軍は九鬼嘉隆の鉄甲船を中心として立ち向かったが、毛利水軍はまたも火矢や焙烙玉で積極果敢に攻撃を繰り返した。しかし、嘉隆は淡輪での戦いと同様に、鉄甲船を相手の大将が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで撃沈するという方法で相手を打ち崩し、本願寺はついに完全包囲下に置かれて孤立する事態になった。

天正6年10月、摂津における石山本願寺討伐の要であった荒木村重の離反によって(有岡城の戦い)、信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。同時に、三木合戦で羽柴秀吉が三木城を攻めていたが、毛利氏が摂津に上陸して三木城に兵糧を運び込む恐れも出てきた。これを機に信長は朝廷を動かして和解をする事を試みる。朝廷は信長の希望を受け入れて勅使を送ったものの、本願寺は毛利氏の賛同が無いと応じられないとしてこれを事実上拒否したため交渉は決裂した。これを受けて信長は毛利氏とも講和する事を決め、毛利氏への勅使が派遣される事になった。しかしその直後、第二次木津川口海戦において織田水軍が大勝すると信長は和平交渉を中止し、村重攻略を進めた。また、村重の反乱自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったために、反乱自体は長期にわたったものの石山本願寺攻略への影響は最小限に留まった。
第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めた他、天正7年(1579年)10月には有岡城が陥落し、三木城の情勢もすこぶる悪くなっていたこともあり、12月、ついに恒久的な和議を検討するようになり、密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えた。その動きを期待していた信長側でも再度朝廷に講和の仲介を働きかけていた。そして、翌天正8年(1580年)1月、三木城が落城した。そのような状況の中で3月1日、朝廷は本願寺へ勧修寺晴豊と庭田重保を勅使として遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。また、信長も別箇に開戦の経緯を知る近衛前久を派遣して本願寺側との妥協点を探った。以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものと言える。
こうして天正八年(1580年)3月、信長の起請文が天皇を介して本願寺に渡され、顕如が大坂を退去して紀州(和歌山県)雑賀に退き籠る事を条件に、宗徒たちの命が保証され、顕如は石山本願寺を出たのです。しかし講和に反対して、その後も籠城したのが、長男の教如(きょうにょ)・・・
しかし、そんな教如も、天正八年(1580年)8月2日、とうとう本願寺を退去し、やっとこさ和睦が成立・・・ここに10年以上にもおよぶ石山合戦は終結しました。

そして、この石山本願寺の跡地に、ご存知の秀吉が難攻不落の大阪城を築いたのです。

いやーーーー長かった!(今回も)
大阪城を見学したので、大阪城の事を書きたかったのですがうっかり長くなりました笑

足が痛くなり、大阪城見ただけで満足しました笑
今回大阪を案内してくれたのは、公家シンジ君。私の歴史のウンチクを聞きながらの大坂城見学ありがとうございました笑

そして連日プチ道場飲みを開くなど、
『りゅうさんぽ』で大阪城を見学した後に、夜は『りゅうちんぽ』になったり、
講習と講習の合間で40分くらいしかないので連れ出したり笑

大阪講習では、二人同時に見る講習でしたが、何即か生まれたり、講習後になんらかの結果が出たり、2回目以降のマンツーマン講習では、全てなんらかの結果がでました。
んーーやはり、マンツーマンは濃いです笑

2回目以降は流OJTで徹底マンマークで実地をかなり強化することになります。
この2回目以降の流OJTが私の講習のキモでもあるのです。
複数回講習をすることにより、何が足りないかをかなり細かく知ることができます。
座学はマネられても、この流OJTだけはマネすることはできません。
地方講習生は2回以上受けて初めて真の流星道場を受けた形になるのです。

次回大坂行くときは流星道場飲み開催いたします!(11月中旬予定)

実は毎日連日プチ流星道場飲みをして、HPは常に赤でした笑
飲みかいが終わった後の深夜の難波は砂漠のようで、女はオアシス(クラブ)の事しか頭にないような感じでした。梅田に比べると下品な女が多いなと感じました。
単に夜だから個人の性格の悪さが露呈していただけかもしれませんが。
大坂の女の子は東京に比べると反応、ノリがともに良いです。
夜は女があまり歩いてないですが、大坂の夜はクラブが賑わっているそうなので、クラブ周りは美味しいのでしょう。(私は基本クラブは行きませんが)

後日のツイートを見ると、講習を気に結果を調子よく出している人もいるみたいなので、私も内心うれしい気持ちになりました。
大坂はまた行きますので、良かったら貴方も流星道場の門を叩いてくださいませ。

それではまた次回!

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